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【中学生向き】千姫物語~姫路城で最良の日々を過ごした千姫の生涯

みなさんは、戦国時代の美しい姫として有名な千姫(せんひめ)のことを知っていますか?
「姫路のお姫様」として知られている戦国時代の美しい姫、千姫は、「姫路城」で生涯最も幸せな時を過ごしたと言われています。

姫路城には、千姫のために作られた「化粧櫓(けしょうやぐら)」という建物(櫓(やぐら))があります。
この櫓は、彼女が結婚する際に持参した大きな化粧料(お金)で建てられたもので、長い廊下「百間廊下(ひゃっけんろうか)」と言われる長局(ながつぼね)を伴って優美な曲線を描いています。

千姫はこの姫路城の西の丸という場所に住んでいたようです。

千姫の人生はどのようなものだったのでしょうか?
少し詳しく見ていきましょう。

千姫の生い立ち

千姫は、1597年に京都の伏見にある徳川家の屋敷で生まれました。
お父さんは徳川家康(とくがわいえやす)の三男で、後に江戸幕府の2代目将軍になる徳川秀忠(とくがわひでただ)でした。
お母さんは、有名な戦国武将・織田信長(おだのぶなが)の妹であるお市(いち)の方の三女・江(ごう)でした。

千姫のお母さんである江には、とても複雑な生い立ちがありました。
江のお母さんであるお市の方は、織田信長の妹として生まれ、近江(おおみ)(今の滋賀県)の領主だった浅井長政(あざいながまさ)と結婚しました。
二人の間には3人の娘が生まれ、長女が茶々(ちゃちゃ)(後の淀殿)、次女がお初(はつ)、そして三女が江でした。

江は最初、信長の妹を母に持つ佐治一成(さじかずなり)という人と結婚しましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で離婚させられ、秀吉の甥である豊臣秀勝(とよとみひでかつ)と結婚することになりました。
しかし、秀勝が朝鮮での戦いで亡くなった後、今度は徳川秀忠と結婚したのです。

このように、千姫は織田信長と徳川家康という、当時の日本で最も有力だった二つの家の血を引いていたのです。

ちなみに、お江は秀忠と結婚して、徳川家光(とくがわいえみつ)や後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮(正妻)である源和子(みなもとのまさこ)を産みました。
お江の血筋は、明仁上皇(あきひとじょうこう)、現在の天皇(今上天皇)、そして悠仁親王(ひさひとしんのう)にまで続いています。

一方で、姉の茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼(とよとみひでより)の母となりました。
次女のお初は従兄弟の京極高次(きょうごくたかつぐ)と結婚し、その京極高次は、関ケ原の戦いでは徳川家康に認められる功績をあげました。

政略結婚と大坂城での生活

豊臣秀吉は、側室の茶々との間に生まれた豊臣秀頼を後継者に決めました。
そして、千姫が2歳の時、豊臣秀吉によって、6歳の豊臣秀頼との婚約が決められました。
これは、豊臣家と徳川家の関係を良くするための政略結婚でした。
しかし、その直後に豊臣秀吉が伏見城で亡くなってしまいます。
千姫と秀頼は、それぞれのお母さんが姉妹なので、従兄妹(いとこ)の関係です。

その後、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、1603年に征夷大将軍( せいいたいしょうぐん)となって江戸に幕府(ばくふ)を開きました。
豊臣家の力が弱まってきたことを心配した秀頼の母・淀殿(よどどの・千姫の伯母にあたる茶々)は、婚約を急がせました。
そして、1603年7月、わずか7歳の千姫は11歳の豊臣秀頼のもとへ嫁ぐことになったのです。

千姫は大坂城で暮らすことになりましたが、これは実質的に人質として豊臣家に預けられたようなものでした。
しかし、千姫は美人であったと言われる祖母・お市の方の血を受け継ぎ、美しく成長し、秀頼とも仲良く暮らしていたと言われています。

大坂の陣と千姫の運命

1614年、祖父である徳川家康は豊臣家を滅ぼすために大坂城を攻めました。
これが「大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)」です。
翌年の1615年には「大坂夏の陣(おおさかなつのじん)」が起こり、ついに1615年5月7日の深夜、大坂城は燃え始め、炎上してしまいました。

千姫は、夫の秀頼や義母の淀殿と一緒に死ぬ覚悟をしていました。
しかし、わずかな望みにかけて、彼らの命を助けてもらうために、燃えさかる大坂城から脱出することにしたのです。
侍女たちと共に城を出た千姫は、徳川軍の坂崎直盛という武将のもとへ向かい、そこから祖父の徳川家康のもとへ行きました。

しかし、千姫の願いは叶いませんでした。
翌日の5月8日、豊臣秀頼と淀殿は大坂城内で自害してしまったのです。
こうして豊臣家は滅びました。

また、秀頼の側室との間に生まれた豊臣国松も後に処刑されますが、その妹である7歳の奈阿姫は、お初や千姫の助命の願いによって命を助けることができました。
奈阿姫は千姫の養女となり、鎌倉の東慶寺という寺に入ることで命を守られたのです。

姫路への旅立ち

千姫は、大坂城が落城してから1年後、新しい人生を始めることになりました。
19歳になっていた千姫は、大坂での悲しい出来事のせいで、体調を崩していました。
千姫の祖父である徳川家康は、孫娘のことをとても心配していました。

家康は千姫のために色々と手を尽くして新しい結婚相手を探しました。
最初は公家(くげ・天皇や貴族の家柄の人)との結婚を勧めましたが、千姫はこれを断りました。
そこで、家康が最も信頼している4人の重要な家臣(徳川四天王(とくがわしてんのう))の一人、本多忠勝(ほんだ ただかつ)の孫、本多忠刻(ほんだ ただとき)との結婚が決まりました。

※徳川四天王(とくがわしてんのう)
徳川家康の最も信頼できる4人の大切な家臣。

この再婚話が進んだのは、大坂落城の2か月後の7月のことでした。
本多忠刻は、とてもハンサムな若者だったそうです。
面白い話があって、千姫が江戸城に帰る途中、三重県の桑名(くわな)という場所で渡しの船に乗った時に、偶然本多忠刻を見かけて好きになったという話が伝わっています。

しかし、千姫の結婚が決まる前に、1616年4月、徳川家康は亡くなります。

二度目の結婚と波乱

千姫と本多忠刻の結婚話には思わぬ事件が起こります。

坂崎直盛という武将が、千姫の輿入れの行列を襲って千姫を奪おうと企てたのです。
この計画を知った幕府は、1万人もの兵士で坂崎直盛の屋敷を取り囲みました。
観念した直盛は、自害してしまいました。

この事件の背景にはいくつかの説があります。
一つは、大坂城から千姫を救出した者には千姫を嫁にしてもよいという徳川家康の言葉を信じて、直盛が火傷を負いながらも千姫を救出したが、千姫に拒絶されたことで恨みを抱いたというものというものです。
また、千姫の再婚相手を探す手伝いをしたのに、その努力が無駄になってしまったことに怒ったという説もあります。

新しい家族との出会い

1616年9月26日、千姫は桑名城に到着しました。
そして3日後の29日、桑名藩主・本多忠政の長男である本多忠刻と結婚しました。
千姫は正室(正式な妻)として迎えらたのです。
この時、千姫は20歳で、本多忠刻は21歳でした。

本多忠刻の母親は熊姫といって、徳川家康の長男の娘でした。
つまり、千姫と本多忠刻は、遠い親戚同士だったんですね。

※熊姫(妙高院(みょうこういん))
徳川家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)の次女。
母は徳姫(織田信長長女)。
父・信康が切腹し母・徳姫が娘たちを残して実家へ戻ると、姉と共に祖父・家康に育てられました。

姫路城での新生活

結婚後、千姫と本多忠刻は姫路城で暮らすことになりました。
姫路城には、二人のために新しく西の丸という場所が作られました。

1617年7月14日、千姫は本多忠刻とその父親の本多忠政と一緒に姫路城に入りました。
千姫が姫路城に入る時には、なんと850人もの従者と500頭の馬が一緒だったそうです。
とても大きな行列だったんでしょうね。

本多忠政は、もともと桑名藩という10万石の領地を持っていましたが、姫路藩に移ると15万石に増えました。
さらに、本多忠刻には千姫の持参金として10万石が与えられました。
忠政が15万石の領地を持つことから、千姫の持参金の多さが分かります。

当時の石高(こくだか)は、お米の収穫量で土地の価値を表していたので、これはとてもたくさんのお金を意味していたんです。

姫路城の西の丸には、千姫のために特別な建物が建てられました。
「百間廊下(ひゃっけんろうか)」とも呼ばれる「西の丸長局(ながつぼね)」という長い廊下があり、そこには千姫に仕える女性たちが住んでいました。
また、「化粧櫓(けしょうやぐら)」という建物も作られ、千姫はそこで休んだりしていたそうです。

千姫と忠刻の住まいは、西の丸内に本館として「中書丸(ちゅうしょまる)」を、三の丸の桐の門内に下屋敷として「武蔵野御殿」を建てていました。
現在の「近世城郭の極致」と称される姫路城が、西の丸が増築されたこの時に完成したのです。
残念ながら中書丸も武蔵野御殿も現存していませんが、これらの建物は豊臣秀吉が築いた伏見桃山城の建材を使って作られた、桃山時代の立派な書院造りの建物でした。

「武蔵野御殿」は、内部の壁や襖に金箔が施され、武蔵野をイメージさせる薄(すすき)が描かれていたことから、この名前が付いたと言われています。

幸せな日々

姫路城での生活は、千姫にとってとても幸せな時期だったようです。

22歳の時に長女の勝姫(かつひめ)が生まれ、翌年には長男の幸千代も生まれました。

本多家の人々はみんな喜び、華やかな雰囲気に包まれていました。
千姫にとってもこの時期が人生で最も幸せな日々だったと思われます。

千姫天満宮の建立

しかし、この幸せな日々はそう長くは続きませんでした。

1621年、3歳だった幸千代が急に亡くなってしまいました。
大切な子どもを失った千姫は、とても悲しい思いをしました。
その後、千姫は何度か妊娠しましたが、赤ちゃんを産むことができませんでした。

同じ頃、夫の本多忠刻も病気がちになりました。
千姫は1623年に、男山(おとこやま)という西の丸からすぐ西に位置する小さな山に千姫天満宮という神社を建てました。

千姫は毎朝、西の丸長局の廊下から男山の千姫天満宮に向かって祈りを捧げていたといわれています。
彼女はまた、天満宮に徳川家の葵紋と豊臣家の桐紋が入った6枚の羽子板を寄進しました。
この羽子板は今も残っています。

しかし、千姫の祈りはかなわず、1626年、本多忠刻は31歳という若さで亡くなってしまいました。
結核という病気だったそうです。
不思議なことに、忠刻が亡くなった日は、大坂城が落城した日と同じ5月7日でした。

その年の8月には姑(しゅうとめ)の熊姫(妙高院)が、9月15日には母のお江(崇源院)も亡くなりました。
千姫にとって、とても辛く悲しい出来事が続いたのです。

宮本三木之助の殉死(じゅんし)

本多忠刻は剣術を好み、播磨出身で天下無双と称された宮本武蔵を招いてその剣術を学びました。
宮本武蔵の申し出により、彼の養子である宮本三木之助(みやもとみきのすけ)が本多忠刻の小姓として仕えていました。
宮本三木之助は、忠刻が31歳で病死した後、忠刻の初七日に墓前で切腹して殉死しました。
23歳でした。

※ 殉死とは
主君が死亡したときに、臣下があとを追って自殺すること。

三木之助の墓は、本多忠刻の墓のすぐ後ろに建てられています。
姫路市の書写山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)にあります。

江戸への帰還

「姫路のお姫様」として知られていた千姫は、夫の本多忠刻を亡くした後、娘の勝姫と一緒に江戸へ戻ることを決めました。
この時、千姫は30歳でした。
弟の徳川家光(とくがわいえみつ)も、千姫のことを心配して江戸に戻るよう勧めたそうです。

千姫が江戸に向けて姫路を出発する時、多くの家臣たちや姫路の人々が別れを惜しんだと言われています。
千姫は美しく、性格も素晴らしい人だったのでしょう。
みんなに愛されていたんですね。

出家(しゅっけ)と新しい人生

江戸に戻った千姫は、しばらくして出家の道を選びました。
まだ若かった千姫には、加賀前田家との縁談など新しい結婚の話もあったようですが、千姫は弘経寺(くきょうじ)(茨城県常総市(じょうそうし))という寺の住職・了学上人(りょうがくしょうにん)の教えを受けて、お坊さんになることを決めたのです。
お坊さんになることを出家といいます。

千姫は「天樹院(てんじゅいん)」という名前で、二人の夫(豊臣秀頼と本多忠刻)の供養をしながら、娘の勝姫と一緒に竹橋御殿で暮らしました。

※供養とは
亡くなった人の魂が安らかに眠れるように、お墓参りをしたり、お線香をあげたり、仏壇に手を合わせて祈ったり、その人のことを思い出したりすることです。

勝姫の結婚

1628年1月26日、千姫の一人娘である勝姫が結婚しました。
お相手は、鳥取藩主の池田光政(いけだみつまさ)でした。
池田光政は20歳、勝姫はまだ11歳という若さでした。

実は、池田光政には姫路城との深い縁がありました。
光政のお祖父さんである池田輝政(いけだてるまさ)は、姫路城を築いた人物で「西国将軍」と呼ばれていたのです。
光政自身も、父の池田利隆(いけだ としたか)の死後、幼いながらも姫路藩主になりました。
しかし、姫路城が西国の重要な拠点であるため、幼い光政が藩主であることを懸念した幕府によって、すぐに鳥取藩主に移されていました。
光政が鳥取へ移された後、姫路藩主になったのが本多忠政で、千姫とその夫・本多忠刻も姫路城に入っています。

千姫にとって、一人娘の勝姫が遠くに嫁ぐのは心配だったでしょう。
千姫は何度も手紙を送って、勝姫の様子を気にかけていました。

勝姫が嫁いでから5年後、千姫は参勤交代で江戸に来た娘婿の池田光政に初めて会いました。
これは、千姫の弟である3代将軍・徳川家光が気を使ってくれたおかげでした。
それ以来、千姫は池田光政とも仲良く付き合うようになりました。

池田光政はその後、鳥取藩主から岡山藩主になり、岡山藩校・閑谷学校を創設したことでも有名です。
彼は江戸時代初期の「三名君」の一人としても知られています。
他の二人は水戸藩主の徳川光圀((とくがわみつくに)と会津藩主の保科正之(ほしな まさゆき)です。

江戸での千姫の生活

千姫は江戸に戻ってからも、多くの人々のために尽くしました。
特に、女性の権利のために力を尽くしたことが知られています。

例えば、鎌倉にある東慶寺(とうけいじ)という寺で、千姫は大きな役割を果たしました。
この寺では、千姫が救った豊臣秀頼と側室との娘・天秀尼(奈阿姫)(てんしゅうに(なあひめ))が住職となり、女性を助ける活動を始めていました。

千姫は弟の将軍・徳川家光に交渉して、東慶寺に逃げ込んだ武家の妻が、夫と離婚したいと言った時に、その願いを聞き入れることができるようにしました。
当時の社会では、女性から離婚を申し立てることはできませんでした。
しかし、千姫の働きかけにより、東慶寺は「縁切寺(えんぎりでら)」として知られるようになり、苦しい立場にある女性たちの助けになったのです。

将軍家との関わり

1632年1月24日、千姫の父である徳川秀忠が亡くなり、千姫もその最後を見守りました。

1644年には、懐妊(妊娠)した将軍・徳川家光の側室・夏が、家光が厄年で災厄を避けるために、千姫と一緒に暮らすようになりました。
そして、千姫の住む竹橋御殿で、家光の3男・徳川綱重(とくがわ つなしげ)が生まれました。

千姫は綱重を養子として育てることになりました。
これは、千姫が弟の将軍徳川家光から大きな信頼を得ていたことを示しています。
このことで、千姫は大奥(おおおく:将軍の住居)でも大きな力を持つようになりました。
綱重は後に「甲府宰相」と呼ばれるようになります。
弟・徳川綱吉(とくがわ つなよし)が後に第5代将軍となりましたが、男子の子どもがなかったため、綱重の長男・綱豊(つなとよ)が綱吉の養子となり、家宣(いえのぶ)と改名して第6代将軍となりました。

岡山の大飢饉と千姫の支援

1645年2月7日、鎌倉の東慶寺で天秀尼が37歳で亡くなりました。

1654年7月、岡山で大きな洪水が起こり、その後大飢饉(だいききん:食べ物が極端に少なくなること)が発生しました。
3000人以上の人々が飢えで亡くなるという大変な事態になりました。

千姫は、見舞金として4万両(現在の金額で数億円以上)を送るなど、幕府に働きかけて20万人もの命を救ったと言われています。

池田光政は、庶民のために閑谷学校を開くなど、江戸時代でも特に優れた大名として知られるようになりました。
そんな光政を陰で支えていたのは、間違いなく千姫だったのです。

千姫の最期

1666年2月6日、千姫(出家後の名前は天樹院)は70歳で亡くなりました。
長い人生を終えた千姫は、多くの人々に愛され、尊敬される人物となっていました。

まとめ~千姫の人生を振り返って

千姫(1597年-1666年)は、豊臣秀頼の正室であり、徳川家康の孫娘として生まれました。
大坂の陣で豊臣家が滅びた後、千姫は再婚し、徳川家に戻りました。
その後、本多忠刻との結婚が決まり、姫路城で幸せな日々を過ごしました。
しかし、子どもの早逝や夫の病死など、次々と不幸が訪れます。
千姫はその後江戸に戻り、出家して天樹院と号し、女性の権利を守るために活動しました。

千姫は東慶寺を「縁切寺」として女性の救済に尽力し、また家光からの信頼を得て大奥でも影響力を持つようになりました。
彼女は一人娘の勝姫を池田光政に嫁がせ、家族の絆を大切にしました。
晩年も慈善活動に励み、庶民のために多くの支援を行いました。
0歳で亡くなるまで、その人生は波乱に満ちたものでしたが、千姫は自らの信念を貫き、多くの人々に影響を与えました。

千姫は、徳川家康の孫であり、また豊臣秀吉の妻・淀殿の姪でもありました。
織田信長と徳川家康、両方の血を引く特別な姫君だったのです。
千姫の人生は、日本の歴史の大きな転換期を象徴するものでした。
戦国時代から江戸時代への大きな変化の中で、千姫は多くの苦しみを経験しました。
しかし、彼女はその苦しみを乗り越え、周りの人々のために尽くす人生を送りました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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