姫路城(中学)

姫路城が世界遺産に選ばれた本当の理由!「白すぎるお城」のどこがどのように美しいのか?

みなさん、今日は、日本が世界に誇る素晩らしいお城について、お話しします。
「姫路城」です。
兵庫県の姫路市にある、真っ白でとてもきれいなお城です。
真っ白な壁に、優雅な屋根。
遠くから見ると、まるで大きな白鷺(しらさぎ)が羽を広げているように見えることから、「白鷺城」とも呼ばれているんですよ。
でも、姫路城はただきれいなだけじゃありません。
400年以上も昔に建てられたのに、今でもほとんど昔のままの姿で残っているんです。
すごいと思いませんか?
しかも、日本で最初に「世界文化遺産」に選ばれました。
世界中の人々が「これは大切に守らなければいけない宝物だ」と認めたということです。
それだけ特別なお城なんですね。
では、どうして姫路城がそんなに特別なのか、みんなで一緒に見ていきましょう。

400年前の姿を今に

姫路城は、播磨地方の中心都市である姫路市に建っているお城です。
1601年(慶長6年)から9年の歳月をかけて造られました。
木や土、石を使って作られたこのお城は、400年以上前のままの姿を今に伝えています。

姫路城は、日本で最初に世界文化遺産に登録され、江戸時代以降の天守が残る国宝になっている5つお城の中でも、一番早く国宝に指定されました。
姫路城は日本だけでなく、世界にも知られる有名なお城です。

播磨地方は、昔から米作りが盛んな地域で、経済的にも発展していました。
また、中国地方や九州など「西国(さいごく)」と呼ばれる地方の東の端に位置し、畿内(きない)(京都、大阪、奈良、兵庫(阪神地域))への入口にあたる場所でもあったため、歴史的にも政治や軍事の面で非常に重要な場所とされてきました。
そのため、姫路城の城主は政治的な力だけでなく、お城の作りや見た目にも特別な工夫を凝らしていました。
「比類ない(ひるいない)」と称される豪華で美しい姿を持つ姫路城は、こうした背景の中で生まれ、その美しさと価値が認められたことで、世界文化遺産として登録されることとなりました。

「世界文化遺産」とは

世界遺産とは

「世界遺産」とは、地球の自然や人類の歴史の中で生まれ、大切に守るべき宝物のことです。これらは過去から今まで受け継がれてきて、私たちが未来の人たちにも引き継いでいかなければなりません。ユネスコ(UNESCO・国連教育科学文化機関)という国際的な組織が、世界遺産を「人類みんなの大切な財産」として守るために、国際的な協力をするルールを作りました。このルールは、1972年に行われたユネスコ総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)として決められました。

世界遺産リスト~世界遺産に登録されるための基準

世界遺産条約に基づき、選定されたそれらが損なわれないように世界全体で保護するべき特に優れた文化財や自然環境が世界遺産として「世界遺産リスト」に登録されます。

世界遺産に登録されるための基準は、「人類がみんなで共有するべき特別な価値を持っていること」とされています。
具体的には、次のようなものが基準となります:

  1. 人類の創造的資質:人間のすばらしい創造力を示す作品であること。
  2. 文化の交流を示すもの:建築や技術、都市計画や景観デザインの発展に大きな影響を与えた文化の交流を示すものであること。
  3. 現存or消滅した文明の証拠:ある文化や文明を伝える唯一の証拠となるもの、またはとても珍しいものであること。
  4. 人類の歴史を象徴する建築物の代表的な段階や景観の見本:歴史上の大切な時代を物語る建物や技術の集合体、または特別な景観の例であること。
  5. 伝統的集落や人類と環境の交流の見本:特定の文化を象徴する伝統的な住居や土地の使い方、または人間と自然との関わりを示すものであること。特に、それが失われる危険があるもの。
  6. 人類史上に残る出来事や現存する伝統、思想、信仰、芸術:重要な出来事や伝統、信仰、芸術作品などと直接的または本質的に関わっていること。他の基準と一緒に使われることが望ましい。
  7. ひときわ美しい自然や類まれな現象:非常に美しい自然現象や景観を含んでいること。
  8. 地球の歴史の主要な段階を示す地形や生命の進化を示すもの:地球の歴史を示す生命の進化や地形の変化を代表する重要な地質学的特徴を持っていること。
  9. 生物の生態系や進化を示す見本:陸地や海、川などの生態系や動植物の進化や発展を示す重要な例であること。
  10. 絶滅の恐れがある生物とその生息域:絶滅の危機にある種の生息地など、自然の中で特に保護が必要な場所を含んでいること。

これらの基準に沿って、世界遺産が選ばれます。

1から6が文化遺産7から10が自然遺産です。

なぜ姫路城は世界遺産に選ばれた?

姫路城は、1993年(平成5年)12月11日に、日本で初めて世界文化遺産として登録されました。
登録された理由は、世界遺産登録基準の1番目と4番目の2つの基準に基づいています。

「人類の創造的な傑作」としての価値

姫路城は、日本の木造建築の中でも最高の美しさを持ち、世界でも類を見ない優れた建物とされています。

「歴史上の重要な時代を示す建物やその集合体」

姫路城の天守群は、17世紀初頭の日本の城の建築が最も盛んだった時期に作られました。そしてその天守群を中心に城の櫓(やぐら)や門、土塀、石垣、堀などが良い状態で保存されていて、また、守りのために工夫をこらした日本独自の城の構造をよく表しています。

この2つの点が、姫路城が世界文化遺産としての価値を持つ理由です。

世界遺産のエリアは、池田輝政(いけだてるまさ)が建てた天守群を中心とした約107ヘクタールの城の区域が含まれ、その周囲には緩衝地帯として約143ヘクタールが設定されています。

姫路城の役割

姫路城は、豊臣秀吉が西国を攻めるための拠点としていました。

徳川家康は娘の夫である池田輝政に、大坂(大阪)の豊臣勢と西国各藩に目を光らせる役目を与えました。
その役目を持って輝政は、大坂、京へ通じる西国の東端の姫路に壮大な城を築きました。

広島城や岡山城が当時の中国地方で有名な城でしたが、どちらも外観は黒いものでした。
それに対して、輝政が建てた姫路城は連立式天守を備え、眩しいほどの白さで人々を圧倒する姿だったのです。
姫路城という美しく壮大な建物そのもので徳川の権力を広く世に示し、反抗する勢力を従わせるという輝政の考えがあったのです。

天守の目的

元々、城は戦いのための施設でしたが、一般の人々が城を美しいものとして見るようになったのは、江戸時代の後期からだと考えられています。
当時の道中記などの旅行記には城についての記述があり、その中で姫路城について「姫路城は日本一」といった称賛の言葉が見られることから、この頃から姫路城の美しさが少しずつ知られるようになったと思われます。

では、城主たちは城の美しさについてどう考えていたのでしょうか。
江戸時代の軍学者(戦術や用兵など、戦国時代の戦の方法の研究者)が示した「天守の10の役割」、いわゆる「天守十徳(てんしゅじゅっとく)」の中には、「遠くを見る」などと並んで「一城之飾(城の飾り)」というものがあります。
これは、天守が城を美しく見せる「飾り」としての役割もあるという意味で、城の美しさに特別なこだわりを持って城を建てた人がいたことがわかります。

姫路城を建てた池田輝政は、特にこの「美」にこだわった城主と言えるでしょう。
輝政の城作りの意図が江戸時代を通じて人々に広まり、姫路城の美しさが定着していったのだと思われます。

明治時代に入っても、姫路城はその「素晴らしい設計による美しさ」から保存・修理されることが決まりました。
姫路城はその美しさゆえに、近代においても日本を代表する城として再び注目を集めたのです。

姫路城の「比類なき美」~姫路城はどこがどのように美しい

では、輝政はどのようにして姫路城の外観に「美」を演出したのでしょうか。

そして、その結果として姫路城のどこが、どのように美しく見えるのでしょうか。
ここでは、主に5つの観点から姫路城の「美の要素」について見ていきましょう。

白色の美しさ

当時、白い城は非常に珍しかったのですが、姫路城は壁だけでなく、屋根瓦の目地までも白漆喰(しろしっくい)で塗られており、他の城よりも白く輝いて見えます。
平安時代の貴族が「いとなまめかし」と表現した白は、すべての色を超えた美しさを持ち、古くから日本人の心を引きつけてきました。
平成の修理で真っ白になった姫路城を見て、多くの観光客が感動したのはそのためです。

※「いとなまめかし」
「いと」
大変。非常に。
「なまめかし」
若々しい。みずみずしい。清新だ。優美だ。優雅だ。上品だ。色っぽい。つやっぽい。

連立天守の美しさ

姫路城の天守は、和歌山城や伊予松山城と並んで「連立天守方式」の代表例です。
連立天守とは、「ロ」の字型に配置された天守台の角に大天守や小天守、櫓(やぐら)を配置し、それぞれを廊下でつなぐ構造です。
姫路城の場合、天守台が非常に狭いため、大天守と小天守が重なって見え、まるで高層ビルが並んでいるような立体的な外観になっています。
このような独特の立体的な天守群は、姫路城ならではのもので、重なり合うダイナミックなスカイラインが作り出され、圧倒的で荘厳な美しさを見せています。

特別なスマートさ

姫路城の大天守には、他の城にはあまり見られないスマートさがあります。
例えば、各階の床の面積や外観の高さを見てみると、上に行くほど各階の床の面積が狭くなり、高さが高くなっています。
特に、最上階(外から見ると5階、内部は6階)は、床面積が非常に小さく、高さがとても高くなっています。
このデザインが「すっと立っている」という印象を与え、他の城とは違った感じを持つ天守になっています。

優雅な屋根のライン

大天守の正面から見ると、屋根のラインがとても美しいです。
1階部分の屋根は横にまっすぐ伸びており、上の2階部分には真ん中に優雅なカーブを描いた唐破風(からはふ)があります。
3階部分には左右に二つの尖った千鳥破風(ちどりはふ)が並び、
その間に4階部分の千鳥破風があります。
最上階にはもう一度、唐破風が優しく乗っています。
これらの直線や曲線、斜線が混ざり合った屋根のラインが、姫路城独特の美しいリズムを作り出しています。

独特の構造の美しさ

狭い天守台に建てられた姫路城の連立天守は、櫓、屋根、壁、石垣、門などの構造物が密集して配置されています。
このため、他の城にはない美しい立体的な空間が生まれています。

池田輝政は、このような美的な観点を意識して姫路城を築いたと思われます。

姫路城の起源について

姫路城がいつ建てられたかについては、いくつかの説があります。
主に「赤松説」と「黒田説」の2つがあります。

赤松説によると、姫路城の始まりは1333年です。
この年、播磨の豪族である赤松則村(あかまつのりむら)(円心(えんしん))が鎌倉幕府を倒すために兵を挙げ、西播磨の苔縄(こけなわ)(兵庫県赤穂郡上郡町苔縄)から京都へ向かう途中で姫路に目をつけ、そこに砦を作りました。
その後、1346年(または1349年)に、則村の次男である赤松貞範(あかまつ さだのり)が、今の姫路城がある姫山に城を築いたとされています。
つまり、赤松貞範が姫路城の最初の城主ということになります。
この説は、姫山にあった称名寺(しょうみょうじ)の板碑や伝承に基づいています。

一方、黒田説では、1555年にはまだ姫山に城はなく、1561年になって初めて「構」(城の一部)が確認されたとされています。
この説によると、初めて姫山に城が建てられたのはこの6年間の間で、姫路の支配者は黒田氏の系譜である黒田重隆(くろだ しげたか)とされ、彼が最初の城主だったとされています。
この説は、称名寺に残る土地売券の記録に基づいており、その記録にはかなりの説得力があります。
※黒田重隆は、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(くろだかんべい)の祖父

ただし、姫山以外に城があった可能性もあるため、どちらの説が正しいかについてはまだ決着がついていません。
そのため、姫路城の起源については、今もなお議論が続いているのです。

姫路城の保存と修復

江戸時代初頭に築城された姫路城は一度も戦で使われることなく江戸時代がおわります。

江戸時代が終わって明治時代になると、不要なものとして多くのお城が取り壊されてしまいました。
でも、姫路城は「とてもすばらしい設計で美しい城だ」という理由で残されることになりました。

そして1931年(昭和6年)には、姫路城の大天守が国宝に指定されました。
これは、五つの現存する天守(姫路城、犬山城、松本城、彦根城、松江城)の中で最も早い国宝指定でした。

第二次世界大戦中、多くの都市が空襲で焼かれ、姫路も中心市街地が焼けてしまいました。
でも、姫路城は奇跡的に焼け残りました。
戦後は、1956年(昭和31年)から1964年(昭和39年)にかけて大規模な修理(昭和の大修理)が行われました。

そして1993年(平成5年)、姫路城は日本で最初の世界文化遺産に登録されました。
これは、姫路城の価値が世界中に認められたということです。

最近では、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)にかけて「平成の大修理」が行われました。
屋根や壁の修理、耐震補強などが行われ、姫路城はさらに美しく、そして強くなりました。

終わりに

姫路城は、日本の誇る世界の宝物です。
400年以上前に建てられた姫路城が、今でも私たちの目の前にそびえ立っているのは、本当に素晴らしいことです。

姫路城は、単なる古い建物ではありません。
そこには、先人たちの知恵と技術、美への探求心、そして未来へつなごうとする強い思いが詰まっています。

姫路城を訪れたとき、ぜひその美しさだけでなく、姫路城が語る歴史や文化にも耳を傾けてみてください。
きっと、新しい発見があるはずです。

そして、姫路城のような素晴らしい文化遺産を、私たちの手でこれからも守り、次の世代に引き継いでいく。そんな大切な役割が、私たち一人一人にあるのです。

姫路城は、過去と現在、そして未来をつなぐ、かけがえのない存在なのです。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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