あなたは江戸時代のお殿様と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?
厳しい顔つきで家臣を叱(しか)りつける姿?
それとも豪華絢爛(ごうかけんらん)な暮らしを楽しむ姿?
今日紹介する酒井忠以(さかいただざね)というひとは、とってもユニークなお殿様でした。
彼は絵を描いたり、お茶を楽しんだり、和歌を詠んだりするのが大好きだったんです。
そう、まるで今の私たちが趣味を楽しむように、芸術を愛していたんですね。
たった36年の生涯で、藩主としての重責を果たしながら、絵画の名手となり、茶道の達人と親交を結び、179回もの茶会を記録し、毎日欠かさず日記をつけました。
困難な時代を生き抜きながら、自分の好きなことを追求し続けた酒井忠以の人生には、私たちが学べることがたくさん詰まっています。
さあ、タイムスリップして、この異色の殿様の人生を覗いてみましょう!
酒井忠以(さかいただざね)の生い立ち
酒井忠以は、1756年12月23日に江戸で生まれました。
江戸というのは、今の東京のことです。
彼は、姫路藩という藩の跡取り息子として生まれてきました。
姫路藩というのは、今の兵庫県姫路市を中心とした地域を治めていた藩のことです。
忠以は、幼い頃から不幸が続きました。
11歳の時にお父さんを亡くし、15歳でお母さん、17歳で藩主であったおじいさんの酒井忠恭(さかい ただずみ)を亡くしてしまいました。
そして18歳という若さで、姫路藩の藩主、つまりお殿様になったのです。
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)
藩主になったばかりの忠以を待っていたのは、とても大変な仕事でした。
1783年から1787年にかけて、「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」という大変な出来事が起こったのです。
飢饉(ききん)というのは、食べ物が足りなくなって、たくさんの人が苦しむ状況のことです。
この飢饉の原因は、天候の変化と火山の噴火でした。
1783年、冬は暖かかったのに、春になると急に寒くなりました。
そして夏、群馬県にある浅間山という火山が大噴火を起こしたのです。
噴火で空に舞い上がった灰のせいで、日光が遮られて気温が下がってしまいました。その結果、お米やその他の作物がうまく育たず、全国で食べ物が足りなくなってしまったのです。
姫路藩でも多くの人々が苦しみました。
お米が不作で、藩の財政も苦しくなりました。
藩の財政というのは、藩のお金の管理のことです。
忠以は、この難しい状況を何とかしようと、河合道臣(寸翁)(かわい ひろおみ/みちおみ(すんのう))という優秀な家臣を見つけ出して、財政改革を任せました。
酒井家は代々徳川家に仕えた大名であり、将軍を支える重要な役割を担っていた忠以は、他の藩と同じように財政的に苦しい状況にあったにもかかわらず、領民や家臣を大切にし、善政を行ったと言われています。
しかし、忠以(宗雅)は1790年に36歳の若さで江戸の姫路藩邸で亡くなります。
その後、改革に反対する勢力からの反発により、寸翁(すんのう)は途中で地位を失い、改革は中断されてしまいます。
それから十数年後、忠以の息子で次の姫路城主となった忠道(ただひろ、ただみちとも)の命によって、1808年に寸翁は再び藩の財政改革に取り組むこととなりました。
忠以(宗雅)の天性の芸術的な才能
忠以は、藩主としての仕事をしっかりとこなす一方で、自分の好きな芸術活動も熱心に続けていました。
絵を描いたり、俳句や和歌を詠んだり、能(のう)という古典芸能を楽しんだりしていたんです。
天性の芸術的な才能に恵まれていました。
特に絵を描くのが上手で、『兎図』(兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(姫路市立城郭研究室蔵)などの素晴らしい作品を残しています。
忠以には、酒井抱一(さかいほういつ)という弟がいました。
抱一も絵がとても上手で、江戸琳派(りんぱ)という絵画のスタイルを完成させた人として有名です。
忠以は、この弟に絵の描き方を教えたこともあったそうです。
茶の湯
でも、忠以が一番熱中したのは、お茶の世界でした。
お茶というと、みなさんはどんなイメージを持ちますか?
急須でお茶を入れて飲むことを想像するかもしれません。
でも、忠以が夢中になったのは「茶の湯」という、もっと奥深いお茶の文化でした。
茶の湯は、お茶を飲むだけでなく、お茶室の飾りつけや、お茶碗などの道具選び、お客さんをもてなす作法など、様々な要素が組み合わさった日本の伝統文化です。
忠以は、この茶の湯の世界にどっぷりとはまっていきました。
松江藩の藩主だった松平不昧(まつだいらふまい)という人物と出会います。
不昧は、茶の湯の達人として有名でした。
1779年、二人は、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)という有名な神社の修復工事を一緒に任されたことがきっかけで親しくなりました。
忠以が25歳、不昧は30歳。
修復はその年の5月から11月にわたる期間でしたが、この時に忠以は不昧より茶道の手ほどきを受け、二人は師弟関係になりました。
江戸にいる時は、お互いの屋敷を行き来して茶の湯を楽しみました。
そして、参勤交代でそれぞれ江戸と姫路、松江を行き来する時も、道中で会って茶の湯の稽古をすることがあったそうです。
※参勤交代
徳川幕府が定めた制度で、大名は原則として1年ごとに江戸と領地を行き来すること。
松平不昧(ふまい)について
松江城主である松平治郷(不昧)(まつだいら はるさと(ふまい))は、1751年2月14日に松江藩(現在の島根県)の6代城主である松平宗衍(まつだいら むねのぶ)の次男として生まれました。
彼は1767年、17歳のときに父が引退したことで家督を継ぎました。
治郷は、松江藩の7代藩主として「不昧公」や「不昧さん」と親しみを込めて呼ばれることが多いお殿様でした。
「不昧」というのは彼の号(学者や文人や画家などが本名のほかに用いる名前)であり、本名ではありません。
治郷(不昧)は、江戸時代後期の大名でありながら、茶道に深く精通していたことで知られています。
藩主としての職務を果たす傍ら、茶道の技術を極め、多くの貴重な茶器を集めました。
さらに、茶道具の研究結果を著作として残し、不昧流茶道の創始者となりました。
また、彼は出雲地方(島根県)において、地元の工芸や美術の発展にも大きく寄与し、茶道を通じて地域の文化や芸術の基礎を築いたとされています。
日記
忠以は、茶の湯以外にも様々な趣味を持っていました。
毎日、日記をつけるのが習慣になっていて、「玄武日記(げんぶにっき)」や「逾好日記(ゆこうにっき)」という日記を残しています。
これらの日記には、忠以が参加した茶会の様子や、日々の出来事、天気のことなどが細かく書かれています。
例えば、「逾好日記」には、1787年から1789年までの2年7ヶ月の間に、179回もの茶会の記録が残されています。
誰がお客さんとして来たか、どんなお茶碗を使ったか、どんな料理を出したかなど、細かいことまでしっかりと書いてあるんです。
忠以は、藩主という重要な仕事をしながら、こうして芸術や文化を楽しみ、そして記録を残していました。
彼は、単なるお殿様ではなく、江戸時代の文化を作り上げた一人の芸術家だったと言えるでしょう。
残念ながら、忠以の人生は短いものでした。
1789年、江戸へ向かう途中、駿府国柏原(するがのくにかしわばら)という場所で不昧と最後の茶会を楽しみました。
江戸へ着いた忠以は病に倒れ、回復することなく、翌年の1790年、わずか36歳という若さで亡くなってしまいました。
まとめ
忠以の生涯を振り返ると、彼がいかに多才で、芸術を愛した人物だったかがわかります。
彼は若くして両親を亡くし、18歳という若さで藩主という重責を担うことになりました。
さらに、天明の大飢饉という大変な出来事にも直面しました。
しかし、彼はこれらの困難に負けることなく、前を向いて生きていきました。
藩主という重要な立場にありながら、絵を描き、お茶を楽しみ、和歌を詠み、能を演じるなど、様々な芸術活動に打ち込んでいました。
忠以は、藩主としての重要な仕事をしっかりこなしながら、同時に芸術家としての才能も発揮したのでした。
最後までご覧いただきありがとうございました。