姫路城

美しき城と美しき恋!姫路城主・榊原政岑と花魁・高尾太夫、禁じられた愛に翻弄された二人の運命とは?

今日は、江戸時代に姫路藩を舞台に繰り広げられた、少し風変わりな恋愛物語をご紹介します。
主役は、姫路城主・榊原政岑(さかきばらまさみね)と、吉原の名高い花魁であった高尾太夫。
身分の違いを超えたこの二人の恋は、歴史に名を刻み、今も多くの人々を惹きつけてやみません。

この物語は単なる愛のドラマではなく、壮大な歴史の背景に彩られた人間模様でもあります。
まずは、彼らの恋の舞台となった姫路城や、政岑の由緒ある榊原家について、少し詳しく探ってみましょう。

姫路城と榊原家の歴史

まずは、舞台となる姫路城について少しお話ししましょう。
姫路城は、「白鷺城」の愛称で親しまれる日本を代表する名城です。

1993年には日本で初めて世界文化遺産に登録され、その美しい姿は多くの人々を魅了しています。

さて、江戸時代の姫路城には、なんと32人もの城主がいたんです。
これは、徳川将軍の15人と比べても、倍以上の数字。
その中でも、ひときわ異彩を放つのが榊原政岑でした。

榊原家の由緒ある歴史

江戸時代の姫路藩を二度統治した榊原家、特に波乱万丈な人生を送った榊原政岑(さかきばらまさみね)についてお話しします。

まず、榊原家の歴史について触れてみましょう。

榊原家といえば、徳川四天王の一人として知られる榊原康政(やすまさ)が有名です。

康政は徳川家康の側近として活躍し、江戸幕府の設立に大きく貢献しました。
その功績により、家康から高く評価されたんですよ。

榊原家の初めての姫路藩主・榊原忠次の功績

さて、榊原家の初めての姫路城主は、康政の孫にあたる榊原忠次(ただつぐ)でした。

忠次は1649年に姫路藩15万石の大名として赴任しますが、これは大きな出世だったんです。

それまで館林(群馬県)から白河(福島県)へと転々としていた忠次にとって、姫路は大きな飛躍でした。

忠次は名君として知られ、その功績は姫路の発展に大きく貢献しています。
例えば、
1 夢前川(ゆめさきがわ)の改修
2 加古川の堤防新設
3 用水路の整備
4 新田の開発

これらの事業は、農業の振興に大きな役割を果たしました。
当時の姫路の主要産業だった農業が発展したことで、藩の経済基盤が強化されたんですね。

さらに忠次は、増位山随願寺(ずいがんじ)を菩提寺として再建したりと、社寺の保護にも力を入れました。

忠次は1665年に亡くなりますが、随願寺に残る彼の墓所は、他の墓所と比べても最も立派なものだそうです。

姫路城の発展と榊原家の役割

ここで、姫路城の歴史について少し触れておきましょう。

現在の姫路城と城下町の基礎を作ったのは、関ヶ原の戦い後に入封した池田輝政(いけだてるまさ)です。
その後、これも徳川四天王の一人の本多 忠勝(ほんだ ただかつ)の長男・本多忠政(ほんだただまさ)が千姫の輿入れの際に西の丸を建造し、姫路城の完成に大きく貢献しました。

そして、榊原忠次の時代には、城下町の産業基盤が整備されたんです。

つまり、姫路城と城下町の発展には、複数の大名家の努力が積み重なっているんですね。
歴史って面白いですよね。

榊原家の苦難と復活

しかし、忠次の死後、榊原家は苦難の時期を迎えます。

忠次の跡を継いだ政房(まさふさ)はわずか2年で亡くなり、その子・政倫(まさとも)はまだ3歳。
幕府は、西国の要である姫路を幼い当主に任せるわけにはいかないと判断し、榊原家を越後村上へ転封させてしまいます。
これが1667年のことでした。

ここで興味深いのは、榊原家の当主継承の難しさです。
跡継ぎがいないことが多く、しばしば養子を迎えて家を存続させていました。
これは、当時の大名家によく見られた現象なんです。

そして1704年、榊原家に転機が訪れます。
再び姫路城主に返り咲いたんです!
この時の当主・政邦(まさくに)も、実は分家から迎えられた人物でした。
しかし、政邦の子・政祐(まさすけ)も後継者なく若くして亡くなってしまいます。

榊原政岑の驚くべき出世

ここで登場するのが、今回の主人公・榊原政岑です。

政岑は、1714年に生まれました。
そして1732年、わずか18歳で姫路藩主となります。
これが、どれほど異例なことか、ちょっと想像してみてください。

政岑は、分家の榊原家の次男坊でした。
当時、分家の次男や三男は「厄介」「部屋住み」と呼ばれ、兄に養ってもらうのが普通だったんです。
つまり、出世の機会はほとんどありませんでした。

それが、わずか1000石の分家の次男坊だった若者が、一夜にして15万石の大大名になったわけです。
まさに、江戸時代版のシンデレラストーリーと言えるでしょう。

政岑の出世には複雑な背景がありました。
もともと政岑は、6代目当主・政邦に養子として迎えられ、断絶していた大須賀家の再興を任されていました。
ところが、政岑の実兄が分家を継いでわずか1年で亡くなり、急遽、政岑が分家を継ぐことに。

その翌年、今度は本家の政祐が重病に。
そこで政岑は、分家当主の座を降りて本家に戻り、政祐の養子として大名家を継ぐことになったのです。

分家の次男坊として生まれた政岑は、普通なら一生、兄に食べさせてもらうような立場だったんです。
昨日まで1000石の分家の次男だった若者が、目覚めたら15万石の大名になっているんですよ。

まるで、おとぎ話のようですね。

政岑の派手な生活と高尾太夫との出会い

政岑は若くして大名になったせいか、かなり派手な生活を送っていたようです。

当時の8代将軍・徳川吉宗が倹約令を出していたにもかかわらず、政岑は派手な服装で江戸城の警備をしたり、吉原遊郭で豪快に遊んでいたんです。

そんな中、1741年の春、政岑は吉原の三浦屋にいた名高い花魁・高尾太夫に出会います。
高尾太夫は、その美しさと教養の高さで知られる名妓。

政岑は一目惚れし、なんと1800両(一説には2500両)という大金で身請けしてしまいました。

ちなみに、1800両って今のお金でどれくらいなのか、ちょっと考えてみましょう。
諸説ありますが、現在の3億円ほどに相当するという説もあります。
びっくりですよね。
当時の大名の年収が1万両程度だったことを考えると、いかに破格の金額だったかがわかります。

高尾太夫:教養高き花魁の魅力

ここで、高尾太夫についてもう少し詳しくお話ししましょう。

太夫(たゆう)というのは、花魁(おいらん)とも呼ばれ、遊女の中で最高位の存在です。美しいだけでなく、様々な教養も身につけていました。

太夫になるためには、書道、華道、茶道はもちろん、碁や将棋、三味線や琴の演奏、和歌や俳諧(はいかい)の作法まで習得しなければなりませんでした。
まさに、芸術と教養の結晶のような存在だったんですね。

実は、「高尾太夫」という名前は、吉原の三浦屋で代々受け継がれる名跡なんです。
京都島原の吉野太夫、大坂新町の夕霧太夫と並んで、「三名妓」と呼ばれる名高い存在でした。
政岑が恋に落ちたのは、第10代(一説には第6代や第7代)の高尾太夫だったとされています。

将軍の怒りと悲劇の結末

さて、政岑と高尾の恋は、世間の注目を集めすぎてしまいます。
噂を避けるため、政岑は高尾を姫路に連れ帰り、姫路城の西御屋敷に住まわせました。
「西の方(にしのかた)」と呼ばせたそうです。

しかし、この行動が将軍・吉宗の怒りを買ってしまいます。
「遊興三昧、ましてや遊女を側室に置くとは何事か!」と、1741年10月、政岑は強制隠居と謹慎処分を命じられてしまいました。

本来なら、家の断絶(改易処分)もありえた重罪でしたが、榊原家の由緒正しい家柄のおかげで、越後(新潟県)高田への転封で済んだそうです。
それでも、27歳の若さで隠居を強いられるのは、相当な打撃だったでしょうね。

政岑が越後高田に移る際、罪人用の青竹で編んだ駕籠に乗せられて行ったという話が伝わっています。
何とも切ない光景ですね。

悲しくも美しい結末

越後高田で、政岑と高尾は仲むつまじく暮らしました。
しかし、その幸せな時間は長くは続きませんでした。
転封からわずか10ヶ月後の1743年2月19日、政岑は29歳という若さでこの世を去ってしまいます。
高尾に看取られての最期だったそうです。

政岑の死後、高尾は仏門に入り、蓮昌院と号して政岑の菩提を弔いました。
江戸に戻った高尾は、現在の南池袋にある榊原家の菩提寺・本立寺(ほんりゅうじ)に居を定めます。

高尾は60代後半まで長生きし、生涯を通じて政岑への愛を貫いたそうです。

最後まで榊原家の人として大切にされ、その墓は榊原家代々の正室の墓と並んで建てられています。

今でも、芸能関係の方々がお参りに来るそうですよ。

政岑の残した「姫路ゆかた祭り」

政岑は、遊興三昧で幕府の怒りを買った大名でしたが、実は町人からは「粋な殿様」として親しまれていたんです。

その証拠に、姫路市内の長壁(おさかべ)神社に伝わる「ゆかた祭り」があります。
これは政岑の粋な計らいで始まったお祭りなんです。

ゆかた祭りは、毎年6月22日から24日にかけて行われます。
浴衣姿の参拝者で賑わう夏の風物詩として、地元の人々に愛されています。
政岑の遺した文化が、今も姫路の街に息づいているんですね。

姫路城と榊原家ゆかりの場所を巡る旅

さて、ここまでのお話を聞いて、姫路に行ってみたくなりましたか?
姫路城と榊原家ゆかりの場所を巡る旅をするなら、以下のスポットがおすすめです。

  1. 姫路城:言わずと知れた世界文化遺産。榊原家が城主を務めた際の面影を感じられます。
  2. 好古園:かつての西御屋敷跡に造られた日本庭園。高尾が住んでいた場所です。
  3. 長壁神社:政岑ゆかりの「ゆかた祭り」が行われる神社です。
  4. 増位山随願寺:榊原忠次の墓所がある寺院。榊原家の歴史を感じられます。

姫路駅から姫路城までは徒歩で約15~20分。
城下町の風情を楽しみながら歩くのもいいですね。
好古園は姫路城の隣にあります。
長壁神社は姫路駅と姫路城とのちょうど中ほど姫路駅から北に徒歩約10分、随願寺は姫路駅から南西に車で約20分の場所にあります。

まとめ:歴史が織りなす人間ドラマの魅力

榊原政岑と高尾太夫の物語は、単なる恋愛譚ではありません。
それは、身分制度が厳しかった江戸時代に、身分を超えて愛し合った二人の悲劇であり、同時に美しい物語でもあるんです。

政岑は確かに、大名としては失格だったかもしれません。
しかし、一途に愛を貫いた姿は、今を生きる私たちの心も揺さぶります。
また、高尾の献身的な愛も、時代を超えて私たちに感動を与えてくれます。

歴史は、ともすれば年号や出来事の暗記というイメージがありますが、実はこんな人間ドラマに満ちているんです。
姫路を訪れる際は、ぜひこの物語を思い出してみてください。
きっと、姫路城や町並みの見え方が変わってくるはずです。

姫路の街を歩きながら、ちょっと江戸時代にタイムスリップした気分で、政岑と高尾の物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

きっと、新しい発見や感動が待っていますよ。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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