姫路城(中学)

【中学生向き】姫路藩を救った立役者~480億円の借金を返済!江戸時代の天才家老・河合寸翁


みなさん、江戸時代って知っていますか?
今から約400年前、日本がまだ武士の時代だった頃のお話です。

江戸時代の後期、日本の多くの藩(はん)(今でいう県のようなもの)が財政難に苦しんでいた中、ある一人の家老(かろう)が姫路藩を救いました。
その人物の名は河合寸翁(かわいすんのう)。
彼の生涯と功績について、今回詳しくお話しします。

河合寸翁の生い立ち

河合寸翁は、姫路藩の家老である川合宗見(かわい むねみ)の息子として生まれました。
幼い頃は「猪之吉」という名前で呼ばれていましたが、後に「隼之助」と改名しました。
さらに成長すると、藩主の酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)から「道臣(ひろおみ/みちおみ)」という名前をもらい、晩年には「寸翁(すんのう)」と呼ばれるようになりました。

家老とは、現代で言えば会社の重役のような存在だと考えるとわかりやすいかもしれません。
藩主の大名を支え、藩全体の運営に大きな責任を持っていた重要な役職でした。

寸翁が生まれた時代は、日本全体が大きな困難に直面していました。
1783年(天明3年)、浅間山という大きな火山の大噴火が起こり、その噴煙の影響で気候が乱れ、夏の気温が下がり米や作物が育たなくなってしまったんです。
多くの人々が食べ物を失い、命を落としてしまったのです。
この大変な出来事を「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」と呼びます。
この「天明の大飢饉」は1787年(天明7年)まで4年間続き、姫路藩も大きな被害を受けました。

若き家老としての挑戦

このような厳しい状況の中、当時の姫路藩主であった酒井忠以(さかい ただざね)は、若き河合寸翁の才能を見出し、彼を家老に抜擢しました。
1787年、わずか21歳の寸翁は、早速藩の財政改革に取り組み始めました。

しかし、寸翁の改革は順調には進みませんでした。
1790年、藩主の酒井忠以が36歳の若さで亡くなってしまったのです。
これをきっかけに、寸翁の考えに反対する人たちが力を持ち始め、寸翁は一時的に家老職を外されてしまったのです。

再び家老として借金73万両に挑む

家老を外されてから約20年後の1808年、寸翁は再び姫路藩の家老として呼び戻されます。
この時、藩主は、12歳の時に酒井忠以の死により家督を継いだ長男の酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)がでした。
42歳になっていた寸翁は、再び藩の財政改革に挑戦することになったのです。

この頃の姫路藩は、深刻な財政難に陥っていました。
藩の借金は73万両(現在の価値で約480億円)にもなってしまい、これは藩の7年分の収入に相当する額でした。
寸翁は、この巨額の借金を返しながら、藩の経済を立て直すという大きな課題に直面したのです。

1810年には「川合姓」を旧姓の「河合」に戻すことを許されています。
なぜ川合だった?
寸翁のおじいさん・川合定恒(かわい さだつね)の前橋藩から姫路藩に移る際の物語があります。
この話はまた別記事にまとめます。

寸翁の改革

河合寸翁は、姫路藩を救うためにさまざまな改革を行いました。
その中でも特に重要だったのが、以下のような政策です。

農民支援
寸翁は、苦しい生活を送る農民たちを助けるため、画期的な政策を実施しました。
例えば、無利子で米を貸し出したり、低い利子で生活資金を資したりしました。
また、災害や米の不作に備えて「固寧倉(こねいそう)」という倉庫を作り、米を蓄えておくようにしました。

産業の振興
寸翁は、姫路藩の産業を発展させるためにさまざまな施設を作りました。
養蚕所(絹を作るところ)、織物所(布を作るところ)、染色工場(染め物をするところ)、陶器所(陶器を作るところ)などを次々と作り、新しい技術や製品の開発をすすめました。
また、朝鮮人参という薬草やサトウキビのなどの高付加価値な商品作物の栽培も始めるなど、幅広い分野で産業の育成に努めました。

姫路もめんの専売制
寸翁の改革の中で最も有名なのが、木綿(もめん)を藩が直接売る専売制度です。
この政策は、10年もの準備期間を経て1821年に実施されました。
当時、木綿は庶民の衣服として広く使われており、とても重要な商品でした。
姫路は温暖な気候に恵まれ、木綿の生産に適した土地でした。

しかし、木綿の取引のほとんどは大阪の商人に支配されており、姫路の生産者たちは不当に安い価格で買い叩かれていました。
大阪の商人たちが安く買い取って、高く売っていたのです。
寸翁は、この状況を変えるため、木綿の売買権を藩の直轄にすることを決意しました。

これは簡単なことではありませんでした。
大阪の商人たちの反対はもちろん、江戸の問屋や幕府の役人たちを説得する必要がありました。
寸翁は粘り強く交渉を続け、ついに1823年、藩が独占して江戸に直接送る江戸への木綿専売が認められました。

この成功には、藩主の親族関係も影響したと言われています。
藩主酒井忠道の八男・酒井 忠学(さかい ただのり)の正室が第11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)の娘・喜代姫(きよひめ)だったのです。
この縁故を生かし、将軍の後ろ盾を得ることができたのかもしれません。

そして、姫路で生産された高品質の木綿を「姫玉」や「玉川晒(さらし)」というブランド名で、大阪の商人を介さずに直接江戸で販売し始めたのです。
姫路もめんは、薄くて柔らかく、品質が高いことで江戸では評判になりました。
一部は、遠く東北地方にまで販売されるほどの人気商品となったのです。

この専売制度により、姫路藩は年間24万両(現在の価値で約158億円)もの収入を得られるようになりました。
そして、驚くべきことに、専売開始からわずか7~8年で73万両もあった借金を完済することができたのです。
さらに、その後も藩の財政は黒字を続け、新たな資金を蓄えることもできました。

産業振興と文化の発展

河合寸翁は、経済改革だけでなく、姫路の文化や産業の発展にも大きく貢献しました。

和菓子づくりの奨励
寸翁は茶道を嗜む(たしなむ)人物でしたが、茶会には和菓子がつきものです。
そこで、姫路の産業を盛り上げるため、和菓子作りを奨励することにしました。
職人たちを江戸や京都に派遣し、最新の製造技術を学ばせたのです。
この時に持ち帰った技術が、現在の姫路の菓子作りの基礎となっています。

また、姫路を代表する和菓子「玉椿(たまつばき)」は、1822年(文政5年)に行われた藩主酒井忠学と11代将軍徳川家斉の25女・喜代姫との婚礼に当たって姫路の和菓子店(伊勢屋本店)が考案し、寸翁が命名したとされています。

今でも姫路を訪れる観光客に人気の和菓子ですが、その起源は寸翁の時代にまで遡るのです。

洋菓子技術の導入
寸翁は、さらに先を見据えた取り組みも行いました。
長崎の出島にあったオランダ商館に職人を派遣し、ヨーロッパの油菓子作りの技術を学ばせたのです。
この技術を身につけた職人たちが姫路に戻り、油菓子(南蛮菓子(なんばんがし))の生産を始めました。
これが、現在姫路の名産品となっているカリントウ(播州かりんとう)の起源なのです。

陶磁器と石材の産業化
寸翁は、姫路の地場産業の育成にも力を入れました。
東山焼(とうざんやき)という陶磁器の生産や、竜山(たつやま)石という石材の採掘と加工を藩の事業として推進しました。
これらの産業は、姫路の経済を支える重要な柱となりました。

新田開発と塩田事業
寸翁は、農業生産を増やすために新しい田んぼを開墾する「新田開発」や、海水から塩を作る「塩田」の事業も積極的に進めました。
これらの事業は、藩の収入を増やすだけでなく、新たな雇用も生み出しました。

教育への貢献/河合寸翁の学校・仁寿山校(じんじゅさんこう)

河合寸翁は、経済や産業の発展だけでなく、教育の重要性も深く理解していました。
1821年、藩の改革に成功した功績により、寸翁は姫路の東部にある奥山に広大な土地(阿保屋敷)を与えられました。

寸翁は、この地に「仁寿山(じんじゅざん)」と名付けた山の谷間に「仁寿山校(じんじゅさんこう)」という私塾を開きました。
この学校は、身分に関係なく誰でも学ぶことができる画期的な教育施設でした。

当時、姫路藩には藩の人材を養成するため藩校の「好古堂(こうこどう)」がありましたが、これは主に武士の子弟のための学校でした。
一方、仁寿山校は庶民の子どもたちにも開かれた学校だったのです。

寸翁は、著名な学者を講師として招き、質の高い教育を提供しました。
例えば、当時有名な儒学者であった頼山陽(らいさんよう)などが、仁寿山校で講義を行いました。

寸翁の教育方針は、一人一人の生徒を大切にし、国や社会に役立つ人材を育てることでした。
彼は、藩の未来は人材育成にかかっていると考えていたのです。

河合寸翁の遺産

河合寸翁は、1841年に75歳で亡くなりました。
彼は生涯を通じて4代の姫路藩主に仕え、30年以上にわたって藩政を担当しました。
その間、73万両という巨額の借金を返済し、藩の財政を立て直すだけでなく、産業や教育の面でも大きな功績を残しました。

寸翁の改革は、姫路藩を江戸時代後期の混乱期から救い、繁栄をもたらしました。
彼が導入した政策や産業の多くは、現代の姫路にも影響を与えています。例えば、姫路の和菓子や播州かりんとうは今でも名物として親しまれていますし、教育に対する熱心な姿勢は、姫路の文化的な基盤となっています。

河合寸翁の生涯は、困難な状況に直面しても諦めずに挑戦し続けることの大切さを教えてくれます。
また、経済的な成功だけでなく、人々の暮らしや教育にも気を配った彼の姿勢は、現代のリーダーたちにも参考になるでしょう。

姫路を訪れる際には、姫路城や美しい街並み、そして美味しい和菓子を楽しみながら、250年以上前にこの地を救った一人の家老のことを思い出してみてはいかがでしょうか。

河合寸翁の物語は、私たちに歴史の重要性と、一人の人間が社会に与えることのできる大きな影響力を教えてくれます。
彼の精神と功績は、これからも姫路の人々に受け継がれていくことでしょう。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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