姫路城(中学)

【中学生向け】世界文化遺産・姫路城を建てた池田輝政~戦国時代から江戸時代へ。

みなさん、お城って好きですか?
日本には、たくさんの素敵なお城がありますよね。
その中でも、兵庫県にある姫路城は特別な存在です。
なんと、世界遺産にも国宝にも選ばれている、とってもすごいお城なんです!

でも、このすばらしい姫路城を誰が建てたか知っていますか?
実は、約400年も前に、池田輝政(いけだ てるまさ)という人物が建てたんです。
池田輝政って聞いたことありますか?
あまり有名じゃないかもしれませんが、とってもおもしろい人なんです。

彼は戦国時代から江戸時代への大きな変化の中で生きた人物で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という日本の歴史に大きな影響を与えた3人の天下人のもとで活躍しました。

彼はどんな人だったのか、どうやって姫路城を建てることになったのか、そして彼の人生にはどんなドラマがあったのか…。
さあ、タイムマシンに乗って、約400年前の日本へ旅立ちましょう!
池田輝政の物語を通じて、日本の歴史の面白さを一緒に発見していきましょう。

まずは、姫路城の歴史から見ていきましょう。

今の姫路城の前のお城

今の姫路城が建つ前に、実は別の姫路城がありました。
それを建てたのは、豊臣秀吉です。
秀吉はまだ羽柴秀吉と名乗っていた頃、中国地方(今の中国5県のあたり)を支配していた毛利(もうり)氏という武将を倒すために、播磨(はりま)(今の兵庫県南西部)にやってきました。

そのとき、秀吉の部下になった天才軍師・黒田官兵衛(くろだかんべい)が、自分の城だった姫路城を秀吉にタダであげたんです。
これを受けて秀吉は、新しく姫路城を建て直しました。
このお城は板張りの黒い城で、3階建ての天守(お城の中心になる建物)がありました。

池田輝政って誰?

さて、ここからが池田輝政の話です。
輝政は今の愛知県にある清州(きよす)城で生まれました。
彼は池田家の次男坊で、子どもの頃は「古新(こしん)」という名前でした。
大人になってからは、最初は「照政(てるまさ)」、そして最終的に「輝政(てるまさ)」という名前になりました。
また、「三左衛門(さんざえもん)」という通り名もありました。
今でも姫路市に、輝政が造った「三左衛門堀(さんざえもんぼり)」という運河が残っているんですよ。

輝政のお父さんは池田恒興(つねおき)といって、織田信長の重要な家臣でした。
大阪で10万石の領地を持っていました。

※「10万石」というのは領地の「石高(こくだか)」のことです。
この「石高」は、1年間に作られるお米の量を表す言葉です。
つまりその土地で1年間に10万石のお米がとれるということです。
ただし、お米だけでなく、海の幸や工業製品などの特産品の収入も石高に含まれていました。
戦国時代から江戸時代にかけては、所領の規模は面積ではなく石高で表記されました。

1582年、輝政が19歳の時に「本能寺の変(ほんのうじのへん)」という有名な事件が起きました。
織田信長が家来の明智光秀に裏切られて亡くなってしまったんです。

このとき、輝政のお父さんは羽柴秀吉(はしばひでよし)(のちの豊臣秀吉)の味方になり、光秀を倒すのを手伝いました。
これがきっかけで、輝政も秀吉に認められるようになりました。

秀吉たちが、信長の死後の後継者と領地の分配を話し合った「清州会議(きよすかいぎ)」で、父・恒興は大坂、尼崎、兵庫で12万石の領地を与えられました。
その結果、兄の元助(もとすけ)が伊丹城の城主、輝政が尼崎城の城主となりました。

1583年、元助と輝政は秀吉側として、「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」に参加しました。
この戦いは、織田勢力が二つに分かれた戦いで、織田信長の後継者になるための大切な戦いでした。
秀吉と秀吉と肩を並べる柴田勝家(しばたかついえ)が戦ったものです。
激しい戦いとなりましたが、勝利した秀吉は、亡くなった信長が築いた権力と体制を引き継ぐことになりました。

その結果、父・恒興は美濃(現在の岐阜県)の大部分を与えられて大垣城(おおがきじょう)の城主となり、兄の元助は岐阜城の城主、輝政は池尻城(いけじりじょう)の城主になりました。

運命を変えた戦い

翌年の1584年、輝政の人生を大きく変える戦いがありました。
それが「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」です。
この戦いは秀吉と徳川家康が戦ったもので、結果は引き分けでした。
でも、戦いのなかで輝政の父と兄が討ち死にしてしまいました。

兄には8歳の息子(輝政の甥)がいましたが、まだ小さかったので、秀吉の計らいで輝政が池田家の跡を継ぐことになりました。
これが輝政の人生の大きな転機だったんです。
もしこの戦いがなければ、輝政は兄の家来か小さな大名で終わっていたかもしれません。

輝政は美濃大垣城主、次いで岐阜城の城主になり、10万石という大きな領地をもらいました。
そして、秀吉が行った多くの戦い(紀州(現・和歌山県)雑賀攻め、越中征伐、九州征伐、小田原征伐、及び陸奥平定)に参加して、どんどん信頼を得ていきました。

家康の娘との結婚

1594年、秀吉の仲介で、輝政は徳川家康の二番目の娘である督姫(とくひめ)と結婚しました。
督姫は、北条家に嫁いでいましたが、小田原落城の後、江戸に帰っていました。
ちなみに、最初の奥さんだった糸姫は体調を崩して実家に帰っていたそうです。

輝政と督姫の仲はとても良く、5人の息子と2人の娘が生まれました。
この結婚は、秀吉が家康を味方につけるための政治的な目的がありました。
でも、この結婚のおかげで、輝政と家康の関係は生涯にわたってとても強いものになりました。

輝政が督姫と結婚することになった時、輝政は徳川家の屋敷に行きました。
そこで「長久手の戦い」で輝政の父と兄を倒した相手の武将、永井直勝という人を呼んで話を聞きたいと思ったんです。
永井直勝に会って話を聞いた後、輝政は永井の領地が5千石だと知りました。
輝政はそれを聞いて、とても悲しくなりました。
「えっ?父の命は、たった5千石分の価値しかなかったの?」と。
でも、輝政は怒るだけじゃありませんでした。
家康に頼んで、永井の領地を5千石から1万石に増やしてもらったという興味深い話が残っています。

関ヶ原の戦い

1598年に秀吉が亡くなると、輝政は家康に近づいていきました。
そして1600年の関ヶ原の戦いでは、家康側(東軍)につきました。

関ヶ原の戦いの前には、輝政は岐阜城を攻め落としました。
これは東軍に有利な状況を作り出すのに役立ちました。
輝政は昔、岐阜城の城主だったので、城のことをよく知っていたんですね。

本戦では、輝政は後衛(しんがり)という大切な役目を立派に果たしました。

西国将軍として

関ヶ原の戦いでの功績が認められ、輝政は播磨(今の兵庫県南西部)で52万石という大きな領地をもらいました。
これは、輝政の人柄を信頼した家康が、大坂(大阪)の豊臣家や中国地方、九州の大名たちを監視する役目を与えたからです。

輝政の弟や息子たちもそれぞれ領地をもらい、池田家全体で100万石という大大名になりました。

実弟の長吉(因幡(鳥取)6万石)、
家康の孫になる二男の忠継(備前(岡山)28万石)、
三男の忠雄(ただかつ)(淡路6万石)

「姫路宰相(さいしょう)100万石」と呼ばれるほどの大きな力を持つようになったんです。

※参考 江戸時代末の大名石高ランキング
1位 加賀藩前田家(約103万石)
2位 薩摩藩島津家(約73万石)
3位 仙台藩伊達家(約62万石)
4位 尾張藩徳川家(約62万石)
5位 紀伊藩徳川家(約54万石)
6位 熊本藩細川家(約54万石)
7位 福岡藩黒田家(約43万石)
8位 広島藩浅野家(約43万石)
9位 長州藩毛利家(約37万石)
10位 佐賀藩鍋島家(約37万石)

この力を使って建てたのが、今の姫路城です。
1601年から1609年にかけて、秀吉が建てた古い姫路城を今の姿に大きく改修しました。
戦うための城から、美しさを重視した城に変えたんです。
これは、戦国時代が終わって平和な時代になったことを表現していました。
同時に、大阪の豊臣家や西の国の大名たちを見張る役目も果たしていました。

輝政は「西国将軍」という異名で呼ばれるほど、西日本を見張る重要な役割を担っていました。

姫路城以外にも、明石城、赤穂城、三木城、利神城(りかんじょう)、龍野城、高砂城など、たくさんのお城を整備しました。
また、加古川の堤防工事を進めたり、城下町を整備したりするなど、たくさんの功績を残しています。

輝政の最期と池田家のその後

1613年1月25日、戦国時代を生き抜いてきた輝政は、50歳で姫路城の中で亡くなりました。
家督(家の跡継ぎ)は長男の利隆が継ぎました。

その後、利隆が亡くなると、輝政の孫の光政が3代目の姫路藩主になりました。
でも、光政がまだ小さかったため、鳥取に国替え(領地を変えること)されてしまいます。

面白いことに、光政の奥さんになったのは、徳川家康の孫娘である千姫の娘、勝姫でした。
勝姫は姫路城で生まれたんですよ。

後に、光政は親戚の都合で岡山に移ることになり、その子孫は江戸時代が終わるまで岡山で続いていくことになります。
光政は、水戸藩主の徳川光圀や会津藩主の保科正之と並んで、江戸時代初期の優れた大名として知られています。

池田輝政の人物像

輝政は、運が良かったと言われることもあります。
思いがけず家の跡取りになったり、徳川家康の娘と結婚したりしたからです。
でも、そうなれたのは輝政自身に実力があったからこそだと考えられています。

輝政は「沈毅(ちんき)、寡欲(かよく)にして大略(たいりゃく)あり」と評されています。
これは、「落ち着いていて意志が強く、欲が少なくて大きな計画を立てる力がある」という意味です。
つまり、優れたリーダーとしての資質を持っていたということですね。

輝政の生きた時代

輝政が生きた時代は、日本の歴史の中でもとても大きな変化の時期でした。
戦国時代から江戸時代への移り変わりの時代です。

戦国時代は、たくさんの武将たちが日本全国で戦い合っていた時代です。
でも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の強い武将が現れて、少しずつ日本を統一していきました。

輝政は、この3人のもとで働き、そして最後は徳川家康の味方になって、江戸時代の始まりに大きな役割を果たしました。
彼は戦う武将としての力も持っていましたが、平和な時代になってからは、美しいお城を建てたり、町を整備したりするなど、新しい時代に合わせた仕事もしました。

姫路城の意味

輝政が建てた姫路城は、単なる立派なお城というだけではありません。
この城には、大きな意味がありました。

まず、美しさを重視したことです。
戦国時代のお城は、敵と戦うための要塞(とりで)でした。
でも、輝政の姫路城は、白くてきれいな姿が特徴です。
これは、戦いの時代が終わって平和な時代になったことを表現しています。

次に、西日本を見張る役目です。
姫路は大阪と中国地方・九州の間にあるので、とても重要な場所でした。
ここに大きくて立派なお城を建てることで、周りの大名たちに対して徳川家の力を見せつける効果がありました。

最後に、新しい文化の中心地としての役割です。
お城を中心に、周りに町を作り、人々の生活を豊かにしていきました。
これは、戦いだけでなく、文化や経済も大切にする新しい時代の始まりを表していたのです。

まとめ

池田輝政は、日本の歴史の中でもとてもユニークな人物でした。
戦国時代を生き抜き、新しい時代を作るのに貢献した人です。
彼が建てた姫路城は、今でも多くの人に愛され、日本の誇りとなっています。

輝政の生涯を通して、私たちは歴史の大きな流れを感じることができます。
戦いの時代から平和の時代へ、古い文化から新しい文化へ。
そんな大きな変化の中で、輝政は自分の役割をしっかりと果たしました。

今、私たちが住んでいる時代も、常に変化しています。
新しい技術が生まれたり、社会の仕組みが変わったりしています。
そんな中で、輝政のように、変化に柔軟に対応しながら、自分の役割を果たしていくことが大切かもしれません。

そして、機会があれば、ぜひ姫路城を訪れてみてください。
白く美しいお城を見上げながら、400年前にこのお城を建てた池田輝政のことを思い出してみてください。
きっと、歴史がもっと身近に感じられるはずです。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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