姫路城(中学)

【中学生向き】江戸時代の「引っ越し大名」松平直矩の物語

皆さん、江戸時代の大名について知っていますか?
大名というと、広大な領地を持ち、豪華な城に住んでいるイメージがあるかもしれません。
でも、実は大名の中にも苦労している人がいたんです。
今日は、そんな大名の一人、松平直矩(まつだいらなおのり)という人物について見ていきましょう。
彼は「引っ越し大名」と呼ばれていたんです。
なぜそう呼ばれたのか、どんな人生を送ったのか、一緒に見ていきましょう!

「引っ越し大名」って何?

松平直矩は、「引っ越し大名」という変わった呼び名で知られています。なぜそう呼ばれたのか、気になりますよね。

江戸時代、大名は自分の領地(りょうち)を持っていました。
でも時々、徳川将軍の命令で、別の場所に引っ越さなければならないことがありました。
命令されたら、嫌でも引っ越さなければいけなかったんです。
これを「転封」(てんぽう)や「国替え」(くにがえ)と言います。

松平直矩は、なんと生涯で7回も転封を経験したんです!
だから「引っ越し大名」と呼ばれるようになりました。
今でいえば、会社の命令でたくさん転勤する人みたいなものですね。

父から受け継いだ苦労の歴史

直矩のお父さんは松平直基(まつだいらなおもと)といいます。
直基も、たくさんの転封を経験しました。
全部で4回も引っ越しをしたんです。

直基は徳川家康の孫にあたる人物で、高い身分の家柄でした。
でも、高い身分だからといって楽な life ばかりではありませんでした。

直基は、
1624年:越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)3万石
1635年:越前大野藩(えちぜんおおのはん)5万石
1644年:山形藩(やまがたはん)15万石
1648年:姫路藩(ひめじはん)15万石
と、次々に領地を替えられました。

「石」(こく)というのは、その領地がどれくらい豊かかを表す単位です。
数字が大きいほど、豊かな領地だったということですね。

領地が変わるたびに石高(こくだか)は増えていきましたが、引っ越しの費用や手間は大変だったでしょう。
家族だけでなく、たくさんの家来も一緒に引っ越さなければいけません。お金もたくさんかかります。

それでも直基は、どの領地でも真面目に藩政(はんせい)に励んだそうです。

しかし、最後の引っ越し(姫路への引っ越し)の途中で直基は亡くなってしまいます。
45歳という若さでした。

この時、直矩はまだ5歳。
父の死によって、幼くして藩主の座を継ぐことになったのです。

5歳で藩主に、そして始まる転封の日々

5歳で姫路藩主(姫路城主)になった直矩ですが、すぐに問題が起きました。
姫路藩は西国の重要な拠点だったため、5歳の子どもが藩主になるのは難しいと判断されたのです。
そのため、翌年にはもう越後(新潟県)の村上藩へ転封することになりました。

大人になってから、直矩は再び姫路藩の藩主になります。
でも、今度は親戚の藩で起きた問題(「御家騒動」(おいえそうどう))に巻き込まれてしまいます。
この問題のうまく解決できなかったため、徳川将軍から罰を受けてしまいました。
罰として、領地を減らされ、外出禁止の「閉門」(へいもん)になりました。
そして、また引っ越しを命じられたのです。

その後、直矩は豊後日田藩(ぶんごひたはん)に転封され、さらにその後も山形藩、白河藩と転封を繰り返しました。

1682年:豊後日田藩(ぶんごひたはん)7万石
1686年:出羽山形藩(でわやまがたはん)10万石
1692年:陸奥白河藩(むつしらかわはん)15万石

結局、直矩は生涯で7回も引っ越しをしたことになります。
これは本当に大変なことだったでしょう。

引っ越しの大変さ

現代でも引っ越しは大変ですが、江戸時代の大名の引っ越しはもっと大変だったでしょう。
家族だけでなく、たくさんの家来も一緒に移動しなければなりません。
道路も今ほど整備されていませんでしたし、交通手段も限られていました。

引っ越しにかかる費用も莫大でした。
直矩は、転封のたびに借金を重ねていったそうです。
領地の石高は増えていきましたが、それ以上に引っ越しの費用がかかっていたんですね。

苦労の中でも努力を続けた直矩

このように大変な思いをしていた直矩ですが、彼は決して投げ出すことはありませんでした。
「引っ越し大名」と呼ばれて嫌な思いをしただろうに、真面目に仕事に励んだそうです。

直矩には面白い趣味がありました。
歌舞伎が大好きだったんです。
江戸にいる時は、よく芝居を見に行ったようです。
また、文芸にも熱中していました。

また、直矩は17歳から亡くなるまで、日記をつけ続けました。
この日記は「松平大和守日記」と呼ばれ、今では当時の様子を知る貴重な資料になっています。

日記には日常の出来事や仕事のこと、天気のこと、趣味のこと、さらには藩の問題まで、いろいろなことが書かれているそうです。

直矩の人柄と最期

直矩は、領内では厳しい政治を行っていたようです。
これは、度重なる引っ越しで藩の財政が苦しくなっていたためかもしれません。
家来たちも貧しい暮らしを強いられていたようです。

しかし、直矩の治世の間に大きな騒動や事件は起きていません。
これは、直矩が何かしらの方法で人々の不満をうまく抑えていたのかもしれません。
あるいは、直矩の人柄が良かったため、人々に深く恨まれることがなかったのかもしれません。

1695年(元禄8年)4月15日、直矩は54歳で亡くなりました。
短い人生でしたが、7回もの転封を経験し、多くの苦労を乗り越えた人生だったと言えるでしょう。

まとめ:歴史から学ぶこと

松平直矩の人生は、とても変わっていて面白いものでした。
7回も引っ越しをして、いろいろな場所で大名を務めました。
大変なこともたくさんありましたが、最後まで頑張り続けた人です。

江戸時代の大名の生活は、私たちが想像するよりも大変だったかもしれません。
特に松平直矩のような「引っ越し大名」は、現代の私たちには想像もつかないような苦労を重ねていたのです。
でも、そんな中でも直矩は自分の役割を果たし、趣味を楽しみ、日記を書き続けました。

    歴史上の人物の生き方を学ぶことで、私たちは自分の人生をより豊かにするヒントを得ることができます。
    皆さんも、松平直矩のような歴史上の人物に興味を持ち、その生き方から何か学んでみてはいかがでしょうか。

    最後までご覧いただきありがとうございました。

    -姫路城(中学)