みなさん、こんにちは!
「池田利隆(いけだ としたか)」という武将を知っていますか?
教科書にはあまり載っていない、ちょっと知られていない人物です。
この人、今の姫路城を建てた「池田輝政(いけだてるまさ)」の長男です。
この利隆、輝政の次に第2代目の姫路城主になったのですが、
実は、姫路よりも岡山と関係が深かったのです。
今日は岡山県の歴史について、ちょっと特別なお話をしようと思います。
岡山と聞いて、何を思い浮かべますか?
美味しい桃やマスカット?
それとも、黒い外壁が印象的な岡山城?
あるいは、日本三名園の一つである後楽園でしょうか?
実は、これらすべてに共通する秘密があるんです。
それは、「池田家」という武将の家族が関わっているということ。
それでは、この池田利隆を中心に、岡山の歴史を探検していきましょう。
タイムマシンに乗って、約400年前の岡山にワープする気分で読んでくださいね。
きっと、みなさんの知っている岡山の景色が、少し違って見えるようになるはずです。
さあ、岡山の歴史探検の旅に出発しましょう!
池田利隆って誰?
池田利隆は、1584年(天正12年)に岐阜で池田輝政(いけだ てるまさ)の長男として誕生しました。
彼のお父さんは、池田輝政は姫路城を建てた「西国将軍」と呼ばれるほど人物です。
利隆が大きくなるにつれて、日本は大きな変化の時期を迎えていました。
1600年(慶長5年)、16歳のとき、利隆は父と一緒に大きな戦いに参加しました。
父と共に新潟の上杉景勝との戦いに参加し、続く関ヶ原の戦いでも徳川家康の東軍として戦功を立てました。
結果、輝政は播磨国(兵庫県南西部)姫路城主として52万石の大大名になります。
併せて、次男(とされる)の備前国岡山藩28万石、三男(とされる)の淡路国洲本藩6万石、弟の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に100万石)を領有することのなったのです。
利隆の弟
利隆には、忠継(ただつぐ)や忠雄(ただかつ)らの弟がいました。
利隆のお母さんは、利隆を生んだあと出血が止まらずそれがもとで病気になってしまいました。そして、治すため実家もどってのですがそのまま帰りませんでした。
そのあと父・輝政のもとに督姫(とくひめ)が嫁いできます。
督姫と輝政の仲は非常に良く、忠継や忠雄ら、5男2女に恵まれました。
この督姫は徳川家康の次女です。
つまり、利隆の弟、忠継や忠雄らは家康の孫ということになります。
1603年(慶長8年)に、5歳の第1子忠継は岡山城主に、第2子忠雄は、1610年(慶長15年)に9歳で淡路国(あわじのくに:現在の兵庫県)6万石の「由良城」(ゆらじょう:兵庫県)の城主となります。
利隆が代わりに
忠継が備前国(びぜんのくに、現在の岡山県)岡山藩藩主なるのですが、5歳のまだ子どもだったので、19歳になった利隆が代わりに岡山城に入り岡山の国を治めることになりました。
そして忠継はというと引き続き父のいる姫路城で16歳まで成長していきました。
ちなみ忠雄のほうも、家臣が代行しました。
利隆は、お父さんの輝政の力を借りながら、とても上手に国を治めたそうです。
利隆、忠継、忠雄そして光政
1605年(慶長10年)21歳の利隆は、徳川家康の最も信頼できる家臣である徳川四天王の一人の榊原康政(さかきばら やすまさ)の娘で徳川秀忠(とくがわひでただ(徳川第二代将軍)の養女を正室(奥さん)に迎えます。
1613年(慶長18年)父輝政が亡くなり、29歳の利隆は西播磨10万石(宍栗、佐用、赤穂三郡)を除く播磨国42万石を相続します。
16歳になった忠継は、輝政の死後、利隆と替わってようやく岡山城に入城し、藩主としての役割を果たし始めます。
母の督姫のために西播磨10万石を足して、計38万石という大規模な領地を統治することになりました。
大坂冬の陣(1614年(慶長19年)11~12月)では、利隆と忠継はともに徳川方として参戦しましたが、その直後に不幸が訪れます。
岡山城に戻った忠継は病に倒れ、1615年(慶長20年)、わずか17歳でこの世を去りました。
忠継が亡くなった後、忠継には子どもがいなかったため、弟の忠雄が跡を継ぐことになりました。
1615年(元和元年)に忠雄が淡路から31万5千石で岡山に入ってきました。
大坂夏の陣(1615年(慶長20年)4~5月)にも参戦した利隆は、1616年(元和2年)江戸で体調を崩し、京都で療養中にわずか33歳の若さでこの世を去ります。
利隆のあとは長男の光政が継ぎ、第3代の姫路城主(姫路藩主)となりました。
しかし、この時光政が7歳の子どもであったため、翌年因幡鳥取32万5000石に移されてしまいます。
その後、1632年(寛永9年)に岡山藩主・池田忠雄が死去し、忠雄の子・光仲(みつなか)が継ぐことになるのですが、光仲もまた3歳の幼少であると理由で、因幡鳥取に国替えとなり、代わりに岡山城で生まれた23歳の光政が鳥取から岡山に入ることになります。
その後、光政の子孫は、明治時代までずっと岡山藩を治め続けました。
ちなみに、光政の奥さんは徳川家康の孫の千姫の娘・勝姫(かつひめ)です。
勝姫は姫路城で生まれています。
利隆と岡山
でも、歴史の本を見ても、利隆のことはあまり詳しく書かれていないんです。
多くの人は、利隆のことを「名君・池田光政のお父さん」としか知りません。
でも、利隆はとても大切な時代を生きた人なんです。
どんな時代かというと、豊臣家という家から徳川家という家に力が移る、難しい時代でした。
そんな中で、利隆はどんなことをしたのでしょうか?
岡山に行って、利隆が残した足跡を探してみることにしました。
岡山の街ができるまで
岡山の街は、池田家の人たちによって少しずつ作られていきました。
最初に街作りを始めたのは、宇喜多直家(うきた なおいえ)という人です。
その後、直家の息子の秀家(ひでいえ)が本格的に街を作り始めました。
そして、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)、池田忠継、池田忠雄と、いろんな人が街作りを引き継いでいきました。
最後に、利隆の長男である光政の時代に、やっと完成したんです。
今の岡山市の中心部は、江戸時代の城下町(お城を中心に作られた街のこと)がもとになっています。
電車で姫路の方から岡山に来ると、旭川(あさひがわ)という川を越えたあたりで、電車が南に大きくカーブします。
これは、昔の城下町の西の端に沿うように線路を作ったからなんです。
岡山駅は、岡山城のちょうど西側に位置します。
線路と駅の場所は、明治時代からずっと変わっていません。
これを見ると、岡山の街が城を中心に作られていることがよくわかりますね。
岡山城を探検しよう
岡山駅前から路面電車に乗って、岡山城に向かいます。
「城下(しりした)」という電車の停留所で降りて、5分くらい歩くと、旭川が見えてきます。
街の中を流れる川なのに、とてもきれいで水がたくさん流れています。
昔の人は、この川の流れを大きく変えて、お城の東側を流れるようにしました。
こうすることで、川をお城の外堀(そとぼり)として使えるようになったんです。とても賢い考えですね。
右側を見ると、岡山城の天守(てんしゅ)が見えてきます。
天守というのは、お城の一番高い建物のことです。
岡山城は宇喜多秀家が築城した城です。
天守は、3層6階建てで、外側に黒い板が貼られています。
これは、壁の下の部分のみを煤(すす)と柿渋(かきしぶ)とで出来た墨(すみ)を塗った板を張る下見板張(したみいたばり)といいます。
太陽の光に当たると、カラスの羽のような色に見えるので、「烏城(うじょう)」と呼ばれていました。
「烏」とはカラスのことです。
白い姫路城とは違って、随所にある金箔瓦の金色と下見板の黒色が目立つ姿をしています。
見上げると、とてもかっこいいです。
でも、なぜ黒くしたのでしょうか?
実は、これには2つの理由があると言われています。
1つ目は、防水性能を強くするためです。
漆喰壁より下見板張は雨水が染み込みにくく、防水性能を強くしています。
2つ目は、見栄えです。
金の飾りと黒い壁のコントラストは、とてもかっこよく見えます。
でも、今見える天守は本物ではありません。
1945年(昭和20年)の戦争で焼けてしまい、1966年(昭和41年)に新しく作り直されたものなんです。
岡山城の向かい側には、後楽園(こうらくえん)という有名な庭園が広がっています。
とてもきれいな庭なので、機会があればぜひ見に行ってください。
今も残る古い建物
岡山城には、昔からずっと残っている建物が2つあります。
1つは本丸(ほんまる)にある月見櫓(つきみやぐら)、もう1つは西の丸(にしのまる)にある西手櫓(にしてやぐら)です。
どちらも国の重要文化財になっています。
西手櫓は、利隆が建てたものです。
利隆は、西の丸の一部を直しましたが、特に西側を守るために西の丸西手櫓を建てました。
この西手櫓は、今、旧内山下小学校の中に残っています。
利隆が建てた建物が今でも残っているなんて、すごいことですね。
もう1つ残っている月見櫓は、利隆の弟の忠雄が建てました。
名前の通り、月を見るために使われることもありましたが、本当の目的は城を守ることでした。
中には武器を置いておくこともできました。
岡山城の石垣
岡山城の石垣(いしがき)は、今でも昔のままの状態で残っているところがたくさんあります。
特に、大手門(おおてもん)の近くにある石垣は、利隆が大きく直したものです。
この石垣は、自然の石をあまり加工せずに使っていますが、上に行くほど傾斜が急になっていて、とてもきれいな形をしています。
昔の人の技術の高さがわかりますね。
藩主の顔
岡山城の近くには、林原美術館(はやしばらびじゅつかん)があります。
昔は岡山城二の丸の一部だった場所です。
ここには、池田家の人たちが使っていた道具や、書いた手紙などがたくさん保管されています。
中でも興味深いのは、輝政と利隆の肖像画(しょうぞうが)です。
これは、利隆の息子の光政が描かせたものです。
利隆の優しそうな表情から、思いやりのある優しい人だったことがわかります。
光政は、おじいさんの輝政とお父さんの利隆のことをとても大切に思っていたようです。
子宝に恵まれて
利隆には、なかなか子供ができませんでした。
そこで1609年(慶長14年)、吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)の子安神社(こやすじんじゃ)というところにお参りに行きました。
お祈りの後、長男(後の光政)を授かったので、利隆はとても喜んで、神社の建物を新しく建て直したそうです。
吉備津彦神社は、岡山駅からJR吉備線(桃太郎線)という電車に乗って十数分のところにあります。
備前一宮駅(びぜんいちのみやえき)で降りて、少し歩くと吉備津彦神社(岡山市北区一宮1043)に到着します。
神社の建物は、「吉備の中山」という山のふもとにあります。
神社の入り口には大きな鳥居があって、その両側には珍しい備前焼(びぜんやき)の狛犬(こまいぬ)があります。
神社の中に入ると、日本一大きな石燈籠(いしどうろう)があります。
高さが11.5メートルもあって、とても迫力があります。
神社の奥には、赤い小さな建物があります。
これが子安神社です。
ここには、「元気な子供が授かりますように」とか「恋がうまくいきますように」といった願い事を書いた絵馬がたくさん飾られています。
今でも多くの人が、幸せを願ってお参りに来ているんですね。
池田家のお寺
1613年、輝政は姫路城で50歳で亡くなりました。
輝政は、池田家をとても大きな大名にした人です。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、日本の歴史上とても有名な3人の武将と関わりながら、波乱に満ちた人生を送りました。
利隆は輝政の跡を継ぎましたが、領地の一部は弟の忠継にも与えられました。
当時は、豊臣家と徳川家の対立が深刻になっていて、利隆は池田家の長男として池田家を守るため、徳川家康の実の孫である弟の忠継・忠雄を大切にしながら、徳川家康との関係も保つという、とても難しい立場にありました。
そんな中、1616年、利隆は京都で病気で亡くなります。
わずか33歳という若さでした。
輝政と利隆のお墓がある国清寺(こくせいじ)は、岡山市中区小橋町にあります。
この寺は、利隆が岡山藩の政治を代行していた1609年に建てました。
最初は法源寺(ほうげんじ)という名前でしたが、その後何度か名前が変わり、最終的に光政が国清寺と名付けました。
国清寺の隣には、清泰院(せいたいいん)という寺がありました。
ここは忠継と忠雄のお墓がある寺で、忠雄の息子光仲(みつなか)の家系が管理していました。
光政は、自分が輝政の正当な後継者であることを示すために、国清寺を大切にしたんですね。
国清寺は、街の中にありながら、とても静かで落ち着いた雰囲気の寺です。
大きな門を入ると、手入れの行き届いた庭が広がっています。
昔はたくさんの建物がありましたが、戦争で多くが失われてしまいました。
でも、山門や座禅堂、鐘楼(しょうろう)など、いくつかの建物は今も残っています。
岡山の文化と産業
池田家は、岡山の文化や産業の発展にも大きく貢献しました。
特に、光政の時代には多くの改革が行われました。
例えば、農業の改良です。
新しい農具を導入したり、新しい作物を取り入れたりして、農業の生産性を高めました。
その結果、岡山は豊かな農業地域になりました。
今でも岡山の桃やぶどうが有名なのは、この頃の取り組みがきっかけになっているんです。
また、教育にも力を入れました。藩校の閑谷学校(しずたにがっこう)を作り、身分に関係なく多くの人が学べるようにしました。
この学校は、今でも岡山県備前市にあって、見学することができます。
日本最古の庶民の学校として、とても貴重な建物なんです。
岡山が誇る後楽園
岡山城の対岸にある後楽園は、池田綱政(つなまさ)が作った大切な場所です。
この綱政は、光政と千姫の娘の勝姫の子どもです。
後楽園には、広い芝生地や大きな池や小さな丘、お茶室などがあります。
池には、岡山城を美しく映すように工夫されていて、今でも素晴らしい景色を楽しむことができます。
四季折々の花や木々も美しく、春には桜、夏には蓮の花、秋には紅葉、冬には雪景色と、一年中美しい姿を見せてくれます。
最初は、藩主がゆっくりと過ごす場所として作られました。
建物の中から景色を楽しむための庭園でした。
綱政の息子である継政(つぐまさ)は、能舞台の周りの建物を大きく作り直し、庭の中央に唯心山(ゆいしんざん)という山を作りました。
また、その山のふもとには、水路を通し、ひょうたんの形をした池を造って、他の池とつなげました。
これにより、庭を歩いて回りながら楽しめるようになったのです。
さらに、継政の孫、治政(はるまさ)の時代には、節約のため一時的に芝生の庭となりますが、その後、園内の東側は再び田畑に戻りました。
現在残っている井田(せいでん)は、その時の名残です。
このように、時代ごとの藩主の好みや社会の変化によって、後楽園の景観は少しずつ変わり、その歴史が積み重なっていきました。
そして、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
後楽園の名前は明治時代になってからです。
もともと岡山城の後ろに作られた園という意味で「後園」や「御後園」と呼ばれていました。
「先憂後楽」の精神に基づいて造られたと考えられることから、1871年(明治4年)後楽園と改められました。
※先憂後楽:先に苦労や苦難を経験したり、心配事をなくしたりしておけば、後で楽が出来るという意味で用いられています。
水戸の偕楽園(かいらくえん)、金沢の兼六園(けんろくえん)と共に「日本三名園」の一つで、国の特別名勝に指定されているんです。
岡山の歴史を振り返って
後楽園や岡山城は今や岡山の象徴として、多くの観光客を集めています。
岡山の農業や教育の発展も、池田家の時代に始まったものが基礎になっています。
岡山が「果物王国」と呼ばれるのも、教育県として知られるのも、この頃からの長い歴史があるからこそなんです。
岡山から帰る時、新幹線が旭川を渡るころ、遠くに岡山城が見えます。
利隆は、難しい時代に岡山の基礎を作りました。
光政は、その基礎の上に立って岡山を大きく発展させました。
そして、その後の池田家の人々も、それぞれの時代に合わせて岡山を守り、育ててきたんです。
利隆が亡くなったのは、お父さんの輝政が亡くなってからわずか3年後でした。
きっと、もっといろんなことをしたかったんだろうなと思います。
もし利隆がもっと長生きしていたら、姫路や岡山の歴史はどう変わっていたでしょうか。
そして、輝政や光政に負けないくらい、すばらしい藩主になっていたかもしれません。
最後に
そして、岡山の街を歩いていると、池田家の人たちが残した足跡がたくさん見つかります。
城や神社、お寺、そして街並みそのものが、昔の人たちの思いを今に伝えているんです。
みなさんも、機会があったら岡山に行ってみてください。
岡山城や後楽園を訪れたり、吉備津彦神社でお参りしたり、国清寺でお墓参りをしたりすると、池田家の人たちの思いを少し感じることができるかもしれません。
歴史は、ただ昔のことを覚えるだけじゃありません。
昔の人たちの生き方や考え方を知ることで、私たちの今の生活や未来について考えるヒントをくれるんです。
岡山の歴史を通じて、みなさんも何か新しい発見や気づきがあるかもしれませんね。
最後までご覧いただきありがとうございました。