姫路城(中学)

【中学生向け】姫路城の不思議な歴史 〜江戸時代、32人もの城主が交代した理由〜

みなさん、姫路城のことを知っていますか?
兵庫県姫路市にある白くて美しいお城です。
奈良県の法隆寺と一緒に日本で最初に世界遺産にもなっているとても有名なお城なんです。

今回は、日本の宝物とも言える姫路城について、ちょっと変わった話をしたいと思います。
姫路城、テレビや教科書で見たことがある人も多いでしょう。
でも、この城には驚くべき秘密があるんです。
なんと、江戸時代の267年間に、32人もの城主が入れ替わったんです!
実は、普通のお城だと、こんなに頻繁に城主が変わることはないんです。
なぜ姫路城だけがこんなに特別なのでしょうか?

さあ、タイムマシンに乗って、江戸時代にタイムスリップ!
姫路城の不思議な歴史の謎を、いっしょに解き明かしていきましょう!

姫路城の驚きの秘密:32人の城主交代

江戸時代って何?

まず、江戸時代について簡単に説明しましょう。
江戸時代は、1603年から1868年までの約260年間続いた日本の歴史上の一時代です。
この時代、徳川家という武士の一族が日本全国を治めていました。
徳川家の代々の長が「将軍」として、江戸(今の東京)に住んで幕府(政治をするところまたは組織)を開き、国を治めていました。

267年続いたこの時代、15人の徳川将軍が日本を治めました。

32人の城主交代

なんと、姫路城の城主は、この江戸時代の267年間に、32人も入れ替わったんです!

え?それがどうして驚くの?って思った人もいるかもしれませんね。
これは、江戸時代の徳川将軍の人数(15人)の2倍以上です。
そして、他のお城ではこんなに頻繁に城主が変わることはなかったのです。

なぜ姫路城だけがこんなに特別なのでしょうか?

江戸時代の間に徳川将軍は15人しかいなかったのに、なぜ姫路城の城主は32人もいたのでしょうか?

これには大きく分けて2つの理由があります。

姫路が重要な場所だった

ひとつめの理由は、姫路が重要な場所だったということです。

姫路は、西日本の大名たち(その地域を治める偉い武士)を見張るのにとてもいい場所でした。

江戸時代初代姫路城主の池田輝政(いけだてるまさ)は「西国将軍(さいごくしょうぐん)」と呼ばれ、徳川将軍は、そのあとの姫路城の城主にも「西国のおさえ」や「西国探題(さいごくたんだい)」という役割を与えていました。
これは、西日本の大名たちが徳川幕府に逆らわないよう、しっかり見張る大切な仕事でした。

このような重要な役割を担う姫路城の城主には、経験と能力が必要です。
そのため、城主が急死した場合などで、跡を継ぐその子どもがまだ小さかったときには、すぐに別の場所に移されてしまいました。
これを「国替え(くにがえ)」といいます。

小さな子どもの城主では重要な役目を果たせないと考えられたのです。
こうして、城主がどんどん変わっていったのです。

実際、8人もの若い城主が、まだ子どもだったために国替えさせられました。
例えば、3代目の城主になった池田光政(いけだみつまさ)は、わずか8歳でした。
でも、すぐに鳥取という別の場所に移されてしまいました。

姫路は豊かな土地だった

もう1つの理由は、姫路がとても豊かな土地だったことです。

江戸時代の経済力を表す「石高(こくだか)」という指標があります。
これは、その土地でどれだけの米が収穫できるかを示すものです。
1万石以上あれば大名と呼ばれました。

姫路は、名目上の石高よりも実際の石高のほうが高かったとされています。
つまり、予想以上のお米がたくさん収穫できる豊かな土地だったのです。

そのため、姫路に国替えで城主となると、財政状況が改善されることが多かったといいます。

お米はその時代のお金のようなものでした。
たくさんお米が作れるということは、たくさんのお金があるのと同じだったのです。

例えば、酒井家のように、わざわざ姫路に来たいと思っていた大名がたくさんいたそうです。
それほど、姫路は魅力的な場所だったのです。

このことが姫路城主が多くなった原因のひとつとされています。

家紋で分かる姫路城の城主の歴史

姫路城の中を歩くと、建物や塀の瓦に刻まれたたくさんの家紋(家族のしるし)を見つけることができます。
これらの家紋は、それぞれの城主の家族を表しています。

例えば:

  • 池田家:揚羽蝶(あげはちょう)という蝶の形
  • 本多家:立葵(たちあおい)という花の形
  • 松平(奥平)家:沢瀉(おもだか)という植物の形
  • 松平(結城)家:三巴(みつどもえ)という3つの丸が組み合わさった形
  • 榊原家:源氏車(げんじぐるま)という車輪のような形
  • 酒井家:剣酢漿草(けんかたばみ)という植物の形

これらの家紋を見ると、まるで家紋の博物館にいるような気分になりますね。

姫路城の城主はどんな人たちだった?

では、具体的にどのような人々が姫路城の城主を務めたのでしょうか。
姫路城の城主には、姫路の重要性を考えて、主に「譜代大名」や「親藩」と呼ばれる信頼できる大名家に城主を任せました。
姫路城の城主は、徳川将軍からとても信頼されている人たちだったのです。

譜代大名というのは、昔(関ヶ原の戦い(1600年)以前)から徳川家に仕えていた武士の家系です。
親藩は、徳川家の血縁者たちのことです。
これらの人たちは、徳川将軍にとって最も信頼できる人たちでした。

例えば:

  • 池田輝政:徳川家康の娘婿(むすめむこ)
  • 本多忠政:徳川家康の家来(徳川四天王の一人、本多忠勝)の息子
  • 松平忠明:徳川家康の外孫(そとまご)
  • 松平直基:徳川家康の孫
  • 榊原忠次:徳川家康の家来(徳川四天王の一人、榊原康政)の孫
  • 酒井家:徳川家康の家来(徳川四天王の一族)の子孫

「徳川四天王」とは、戦国時代に徳川家康に仕えて江戸幕府という新しい政府を作るために大きく貢献した4人の武将のことを指します。
その4人は、井伊直政(いいなおまさ)、酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)です。
この4人は、徳川家康がまだ若く、人質として他の大名のところにいた時から彼を支え、その後もずっと忠誠を尽くしました。
徳川家康が最も信頼していた家来の武将です。

これらの人たちが、何度も姫路城の城主として入れ替わり立ち替わりやってきました。
中には、同じ人が2回も城主になったケースもあります。

例えば、本多家は2回、榊原家も2回、松平(結城)家に至っては3回も姫路城主を務めています。
また、松平直矩(まつだいらなおのり)という人物は「引っ越し大名」と呼ばれ、2回も姫路城主に任命されました。
映画にもなりましたね。

このように同一人物が複数回城主を務めるのは、他の城ではあまり見られない現象です。

江戸時代の大名の種類

江戸時代には、3種類の大名がいました。
大名というのは、たくさんの土地を持っている偉い武士のことです。

  1. 親藩:徳川家の親戚の大名です。特に尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は「御三家」と呼ばれ、将軍家に後継者がいなくなった場合の候補とされていました。
  2. 譜代大名:関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた大名です。徳川家からとても信頼され、幕府内で重要な役職に就いています。
  3. 外様大名:関ヶ原の戦い後に徳川家に仕えるようになった大名です。譜代大名に比べると信頼は薄く、重要な役職に就くことは少なかったです。

姫路城の城主は、主に譜代大名か親藩から選ばれました。
それは、姫路がとても大切な場所だったからです。

まとめ 姫路城の魅力

姫路城は、ただ美しいだけではありません。
日本の歴史を知るうえでとても大切な場所なのです。
32人もの城主が交代したことは、姫路がいかに重要で豊かな場所だったかを教えてくれます。

姫路城を訪れるときは、美しい白い城壁だけでなく、そこに刻まれた家紋にも注目してみてください。
それぞれの家紋が、姫路城の長い歴史を物語っています。

また、姫路城の周りの町も歩いてみると面白いですよ。
昔の武士たちが住んでいた場所や、お寺、神社なども見ることができます。
これらの場所も、姫路の歴史を知るのに役立ちます。

姫路城は、日本の城の中でも特別な存在です。
多くの城主が交代したこと、西日本を見張る重要な役割を果たしたこと、そして豊かな土地だったことなど、たくさんの特徴があります。

これからも、姫路城はたくさんの人に愛され、大切に守られていくことでしょう。
みなさんも、機会があればぜひ姫路城を訪れてみてください。
きっと、日本の歴史や文化について、新しい発見があるはずです。

姫路城は、私たちに多くのことを教えてくれます。平和の大切さ、信頼関係の重要性、そして歴史を守ることの意義などです。
これからも、姫路城が日本の宝として輝き続けることを願っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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